中川 千代治(なかがわ ちよじ、1905年明治38年)11月6日[1] - 1972年昭和47年)2月25日[2])は、日本政治家愛媛県宇和島市長を務めた。

また、太平洋戦争ビルマの戦いに従軍した体験から平和運動に身を投じ、1954年にニューヨーク国際連合本部ビルに世界の硬貨を鋳込んだ「平和の鐘」を寄贈した事績でも知られる。

来歴 編集

太平洋戦争前 編集

愛媛県八幡浜町の魚本家に生まれる。1924年、19歳の時に宇和島市の中川家の養子となる。

1928年に早稲田大学政治経済学部を卒業した。

1930年に伊予銀行に就職し、1934年には吉田支店長となる。1937年に日中戦争に出征した。

1938年に明治製菓三津浜工場長に就任するとともに、愛媛県缶詰工業理事長ともなる。1939年には日本食料統制組合理事長に就任した。

太平洋戦争従軍と復員後 編集

1941年の太平洋戦争開戦後はビルマ戦線に少尉として従軍するが、翌年に所属部隊が全滅し、自身も銃撃を受け死線を彷徨った。

復員後の1950年に日本国際連合協会の評議員・理事となる。この年、戦争中の金属供出梵鐘を失っていた宇和島市の泰平寺に、世界26か国の硬貨と自身の軍刀を鋳込んで製造した鐘を奉納する。翌年、パリで開催された第6回国際連合総会にオブザーバーとして出席し、国連本部に「平和の鐘」を贈呈することを申し出る。日本国際連合協会は、1954年に「平和の鐘」を国連本部に寄贈したが、中川自身は贈呈式には出席できなかった。

1959年に宇和島市長に当選し、2期務めたあと1967年の選挙で元衆議院議員の山本友一に敗れるも、1971年の市長選で山本を破って返り咲いた。しかし、翌1972年に肝臓癌のため死去[2]

この間、1963年には全国市長会理事に就任している。1971年には市制50周年を記念して「世界絶対平和都市宣言」を発表した。

一方、平和運動の面では、1961年にスイスジュネーブで開かれた「国連協会世界連盟」総会に日本代表として出席するとともに、ニューヨークの国連本部における「平和の鐘」記念式典に参列した。式典は、事務総長のダグ・ハマーショルドが事故で急逝したことを受け、入魂式のみとなった。また、同年には米ソの首脳(ジョン・F・ケネディニキータ・フルシチョフ)に対して、「少しの思いやりと笑顔で世界の平和が保たれる」とのメッセージを添えた「平和の鐘」の姉妹鐘を大使館を通して贈呈した。

1970年の日本万国博覧会に「平和の鐘」を展示させるべく、前年に国連事務総長ウ・タントに申し入れをおこない、了承を得た。万博での展示中に代理となる「留守番鐘」を鋳造して国連本部に展示し、博覧会終了後はこの「留守番鐘」が万博記念公園に展示されている。また、ウ・タントと世界152か国の首脳に、重さ1kgのレプリカを寄贈した。

栄典 編集

脚注 編集

  1. ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、373頁。
  2. ^ a b 中川千代治について 一般社団法人 国連平和の鐘を守る会