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中村 祐庸(なかむら すけつね、1852年嘉永5年)- 1925年4月1日)は、日本軍楽指導者、海軍軍楽長[1]

経歴編集

薩摩国鹿児島に生まれる[1]明治維新前に、薩摩藩の楽隊に入る[2]

1869年(明治2年)、ジョン・ウィリアム・フェントンについて西洋音楽を学び、翌1870年には御親兵付となる[1]1871年に横浜で、フェントンによる西洋軍楽の伝習が始まると、海軍付としてこれに参加し、後の海軍軍楽隊の形成に参画した[1]

一貫してコルネットフリューゲルホーンなどの高音金管楽器を専門としていたが、1885(明治18)年7月20日の音楽取調掛演奏会(フランツ・エッケルト指揮)に「オボ 楽長 中村祐庸」という表記(中村理平「洋楽導入者の軌跡」p.279)があり、この時期、試験的にオーボエ演奏を試みていた可能性がある。なお、この時代、日本では未だダブルリード楽器は演奏困難として正式には導入されていなかった。

1871年に、海軍最初の軍楽長となった[1][2]

1874年佐賀の乱や、1877年西南戦争にも(政府軍側として)従軍した[2]

「君が代」との関わり編集

国歌としての「君が代」は、当初はジョン・ウィリアム・フェントンが1870年に作曲したものが存在していたが、海軍軍楽隊長となっていた中村は、1876年に「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改定ノ儀上申」を出し、日本語を理解しないままにフェントンが作曲した旋律の改定を提言した[3]1877年西南戦争の影響で、この提言はしばらく手が付けられなかったが[3]1880年、宮内省伶人の奥好義が作った旋律が、伶人長の林廣守 撰として雅楽部から上申された[4]。最終的に、国歌として選定したのは、海軍軍楽長であった中村と陸軍軍楽長の四元義豊、そして海軍省傭の音楽教師であったフランツ・エッケルト[1]であり、エッケルトは「君が代」に和声を付けた[5][6]。こうした経緯から、中村は「「君が代」の制定者」とされ[2]、「国歌「君が代」の作曲に尽力した」と評されるひとりとなっている[1]

海軍軍楽長として編集

中村は、1885年に、それまでのイギリス式に代わる信号ラッパ譜として『喇叭譜』を制定した[2]。また、1880年代後半には、エッケルトを顧問として、配下の吉本光蔵瀬戸口藤吉とともに『海軍軍楽学理的教科書』の編纂を行なった[2][7]

中村は、晩年を横須賀市で過ごした[2][5]

脚注編集

  1. ^ a b c d e f g 20世紀日本人名事典『中村祐庸』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f g “「君が代」の制定者 海軍の老楽長逝く 七十五歳横須賀の隠宅で”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 7. (1925年1月21日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  3. ^ a b 水谷川忠俊. “君が代のひみつ”. AMATO-NETWORK. 2015年6月9日閲覧。
  4. ^ 芝祐泰 (述)「新君カ代の誕生と旧君カ代の廃曲」『日本の教育課題1 「日の丸」「君が代」と学校』佐藤秀夫、東京法令出版、1995年。2015年6月9日閲覧。
  5. ^ a b “君が代の譜を改作して初演奏をした時 英人フ氏の作曲を明治十二年わが雅楽部員が現在の譜に 当時の軍楽隊長中村祐庸翁が苦心の思出”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 5. (1922年1月2日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  6. ^ 20世紀西洋人名事典『フランツ エッケルト』 - コトバンク
  7. ^ 塚原康子平高典子「海軍軍楽長・吉本光蔵のベルリン留学日記」『東京藝術大学音楽学部紀要』第37号、東京藝術大学音楽学部、2011年、 43-60頁。“明治30~31年(1897-8)エッケルトを顧問に行われた『海軍軍楽学理的教科書』の編纂では、楽長の中村祐庸(1852-1925)、後輩の瀬戸口藤吉とともに編纂委員を務めており、楽長に次ぐ立場にあったとみてよい。” NAID 120005607382

関連文献編集

  • 工藤忠雄、海軍軍楽隊 初代軍楽長中村祐庸遺録、種智舎、1995