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中西 親志(なかにし ちかし、1960年11月6日 - )は、三重県松阪市出身の元プロ野球選手捕手)、コーチ。現在は東京ヤクルトスワローズスカウトを務める。

中西 親志
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 三重県松阪市
生年月日 (1960-11-06) 1960年11月6日(58歳)
身長
体重
178 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1987年 ドラフト5位
初出場 1988年5月15日
最終出場 1994年7月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

目次

来歴・人物編集

三重県立相可高等学校では、捕手として1977年秋季中部大会に進出するが、1回戦で刈谷高に延長10回敗退。翌1978年春季中部大会県予選でも準決勝に進むが、海星高に敗れる。

卒業後は社会人野球の電電東海(1985年度よりNTT東海)に進む。同期入社の浜田知明とバッテリーを組み。1982年都市対抗に出場。1回戦で日産自動車と対戦し、自らの適時打で先制するが8回に逆転され敗退した[1]1986年社会人野球日本選手権では、エース笠井孝志登を擁し決勝に進出。自ら本塁打を放ち、阿部企業を降しチーム初優勝を飾った。この大会では優秀選手に選出されている。都市対抗には6回出場し、1987年都市対抗では松本安司三菱名古屋から補強)とともに中心打者として活躍。準決勝に進むがヤマハに惜敗[1]

1988年のドラフト5位でヤクルトスワローズに入団。2年目の1989年には66試合に先発出場し、秦真司とレギュラーを争う。しかし打撃面で伸び悩み、翌年に古田敦也が入団すると出場機会が減少。1996年に選手兼任コーチになり、それまでの背番号33を当時ルーキーだったカツノリに譲り、背番号を71に変更した。1997年、現役を引退しヤクルトのコーチに就任。

現役時代は古田敦也の影に隠れる形となったが、闘志あふれる性格と打者の内角を抉るリードで当時の野村克也監督からの信頼は厚かった。そのリードスタイルは歴代野村政権下のチームで踏襲されている。しかし、通算打率1割台本塁打1本と打力が弱く、また肩も弱かった上に後述の乱闘による負傷もあり正捕手にはなれなかった。出番はそれほど多い選手では無かったが気の強い選手で、後述の通り乱闘騒ぎを起こすことが多かった。

2013年10月9日に球団から契約満了に伴い、退団する事が発表された[2]

2017年、ヤクルトスワローズのスカウトを担当している[3]

乱闘に関するエピソード編集

  • 1989年5月31日神宮球場での対阪神タイガース戦での阪神の渡辺伸彦がヤクルトのラリー・パリッシュ死球を与え乱闘騒ぎに。パリッシュ退場のわずか12分後、渡辺が今度は中西にブラッシュボールを投じ、中西はマウンドへ突進し、再び乱闘騒ぎになり、渡辺は危険投球で退場処分を受けたが、突進した中西は退場処分にならなかった。
  • 1991年7月17日のナゴヤ球場での対中日ドラゴンズ戦で、中日の山口幸司への死球に当時一塁ベースコーチとなっていた中日の打撃コーチの岩本好広が激昂し中西を殴打。中西は岩本に直ちに掴み掛り、報復の一撃を加えた。両軍は乱闘となり、結果岩本のみ退場処分を受けた。
  • 1994年5月11日の対読売ジャイアンツ戦でヤクルトの西村龍次が投げた巨人のダン・グラッデンへの内角球がきっかけで生涯3試合目、4度目の乱闘騒ぎになった。この試合では序盤にバッテリーを組んでいた西村が巨人の村田真一の頭部に死球を当てて村田を負傷退場に追いやってしまう。続いて、今度は巨人の木田優夫が打席に立った西村の左腰付近に死球を当てて、両チームに険悪な雰囲気が漂っていた(木田の行為に対しては、ヤクルトの監督の野村克也が審判に抗議する場面もあった)。この乱闘で中西はバッテリーを組んでいた西村に詰め寄ったグラッデンを制止するもキャッチャーマスクの上からグラッデンに殴られたため、中西も激昂し、キャッチャーミットでグラッデンの顔面を殴る等応戦、本塁上で激しい殴り合いに発展した。両者共負傷したうえ暴力行為で退場処分。西村も危険投球で退場処分を受けた。グラッデンは右親指と左小指を骨折。中西は顔面を骨折、左目を打撲した。週刊ポストが「この試合後に一軍出場はなく」と報じたことが原因で、この試合が中西にとって最後の一軍出場と誤解されることがあるが[4]、実際にはこの後も6試合のスタメン出場を果たしており、最後の一軍出場は1994年7月28日広島東洋カープ戦での途中出場である[5]

詳細情報編集

年度別打撃成績編集

















































O
P
S
1988 ヤクルト 15 15 15 0 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0 6 1 .067 .067 .067 .134
1989 77 178 152 11 27 2 0 1 32 12 1 0 10 0 15 2 1 41 2 .178 .256 .211 .467
1990 25 54 50 2 6 0 1 0 8 1 0 0 0 0 4 0 0 13 3 .120 .185 .160 .345
1991 13 27 20 3 4 0 0 0 4 2 0 0 0 1 6 2 0 5 0 .200 .370 .200 .570
1992 9 7 6 1 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 .167 .286 .167 .453
1993 7 8 7 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1994 26 55 50 0 7 0 0 0 7 1 1 0 1 0 4 0 0 13 1 .140 .204 .140 .344
通算:7年 172 344 300 17 46 2 1 1 53 18 2 0 11 2 30 4 1 79 7 .153 .231 .177 .408

年度別守備成績編集


捕手
試合 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1988 15 6 4 2 .333
1989 76 50 38 12 .240
1990 25 18 12 6 .333
1991 13 12 9 3 .250
1992 8 2 1 1 .500
1993 7 2 1 1 .500
1994 26 19 14 5 .263
通算 170 109 79 30 .275

記録編集

背番号編集

  • 33 (1988年 - 1995年)
  • 71 (1996年 - 2013年)

脚注編集

  1. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  2. ^ 契約満了のお知らせ(コーチ)ヤクルト球団公式サイト2013年10月9日配信
  3. ^ [1]
  4. ^ “元阪神ドラ1源五郎丸洋 客寄せ試合で野球人生棒に振るケガ”. NEWSポストセブン (小学館). (2012年11月7日). https://www.news-postseven.com/archives/20121107_153354.html 2019年1月12日閲覧。 
  5. ^ ヤクルトvs広島 17回戦”. 日本プロ野球記録. 2019年1月12日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集