中野初子

日本の電気工学者

中野 初子(なかの はつね、安政6年1月5日1859年2月7日) - 1914年大正3年)2月16日)は、明治時代の電気工学者。男性。佐賀県出身。

中野初子

経歴・人物 編集

佐賀藩中野卜斉の二男として肥前小城郡にて生まれる[1]1873年(明治6年)、工部省電信寮に出仕していた長兄の中野宗宏(後に外信局次長)を頼って上京し、佐賀出身の初代電信頭石丸安世の塾に入った[2]。翌年工部省工部寮小学校に入学する[1]。のち工部大学校(現:東京大学工学部)に進み、イギリスの電気工学者ウィリアム・エドワード・エアトンに師事し、在学中の1878年(明治11年)3月25日藤岡市助浅野応輔らと共に中央電信局開局祝宴にて日本初のアーク燈を灯した[1][3]

1881年(明治14年)卒業後は、工部省文部省に出仕[1]。その後、東京帝国大学助教授を経て、1891年(明治24年)同校教授となる[1]。ほか電気学会会長を務めた[1]。墓所は染井霊園

栄典 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ)『中野 初子』 - コトバンク
  2. ^ 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『中野 初子』 - コトバンク
  3. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『中野初子』 - コトバンク
  4. ^ 『官報』第5451号「叙任及辞令」1901年9月2日。
  5. ^ 『官報』第6995号「叙任及辞令」1906年10月22日。
  6. ^ 『官報』第8544号「叙任及辞令」1911年12月12日。
学職
先代
林董
電気学会会長
3代:1911年 - 1913年
次代
浅野応輔