中院通成

1222-1287, 鎌倉時代前期~中期の公卿。源通方の子。官位は正二位・内大臣。号は中院、または三条坊門。中院家2代当主。勅撰集『続後撰和歌集』以下に28首入集

中院 通成(なかのいん みちなり)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿中院、または三条坊門と号す。大納言源通方の子。官位正二位内大臣中院家2代当主。

 
中院通成
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 貞応元年(1222年
死没 弘安9年12月23日1287年1月8日
改名 通成→性乗(法名)
別名 中院または三条坊門
官位 正二位内大臣
主君 後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇後宇多天皇
氏族 村上源氏 中院家
父母 父:中院通方、母:一条能保の娘
兄弟 源通氏通成北畠雅家土御門顕方土御門通世、道能、雲観、大納言局、花山院通雅
宇都宮頼綱の娘
通頼通教、禅助、顕子、房子、三条実重正室
養子:大炊御門冬忠?
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経歴 編集

貞応元年(1222年)、源通方の子として誕生。母は権中納言一条能保の娘であるが、その姉妹には九条良経の正室となり立子(東一条院)・道家を産んだ女性、西園寺公経の正室となり実氏掄子を産んだ一条全子花山院忠経の正室となり忠頼定雅を産んだ一条保子がいる。

通成の娘では西園寺実兼の正室となり公衡鏱子今出川公顕を産んだ中院顕子三条実重の正室となって公茂を産んだ女性、そして中院房子がいる。通成の子である通頼通教を産んだ妻は宇都宮頼綱の娘[注釈 1]である。

父の通方は大納言に留まったが、姻戚関係などが関係して通成は大臣家としての中院家の事実上の始祖となった。

文永7年(1270年)12月13日に出家し、弘安9年(1286年)12月23日、薨去。

官歴 編集

以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の記事に従って記述する。

系譜 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 禅助と中院顕子の母も頼綱の娘であるとする説がある[1]

出典 編集

  1. ^ 田渕句美子 著「『百人一首』の成立をめぐって」、江田郁夫 編『中世宇都宮氏 一族の展開と信仰・文芸』戎光祥出版〈戎光祥中世史論集 第9巻〉、2020年1月。ISBN 978-4-86403-334-3 

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