久保吾一
久保 吾一(くぼ ごいち、1923年5月17日 - 1988年[2])は、静岡県[2]出身のプロ野球選手。ポジションは外野手(主に中堅手)、一塁手。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 静岡県 |
生年月日 | 1923年5月17日 |
没年月日 | 1988年 |
身長 体重 |
173 cm 67 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手、一塁手 |
プロ入り | 1950年 |
初出場 | 1950年3月10日[1] |
最終出場 | 1952年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
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この表について
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来歴・人物
編集島田商業(現・静岡県立島田商業高等学校)在学中には、甲子園に4回出場(春2回〈1940年,1941年〉、夏2回〈1939年,1940年〉)。この内1940年夏は「5番・左翼手」としてチームの準優勝に貢献。高校時代のコーチに根津辰治(慶大野球部で活躍。のち戦死した。)、チームメイトに一言多十(のちセネタースなど)、鈴木清一(のちセネタースなど)、北川桂太郎(のちセネタースなど)がいる。1943年に高校を卒業し、一言と鈴木のいる専修大学に進学したが、折りからの戦争で東都大学野球リーグ戦は中止になり、殆ど野球が出来なかった。程なく学徒出陣でビルマ(現・ミャンマー)に出征した。終戦後復員し、明電舎野球部に入部。長打力のある打者として主に3番を打ち、中堅手として活躍した。
社会人野球での活躍が期待され、1950年に国鉄スワローズの結成に参加した[2]。そして国鉄のこけら落としゲームとなった、3月10日の大洋ホエールズ戦(下関球場)に「4番・中堅手」として出場[1]。スワローズの球団史上(アトムズ含む)初の4番打者となった。しかし、プロ野球の水に会わなかったのか、全く期待外れに終わり、めぼしい成績を残す事は出来なかった(特に、ホームランはプロでは遂に1本も打てずじまいだった)。1952年限りで退団[2]。
国鉄退団後は、再び社会人野球に復帰し、川崎トキコ(川崎市)に入部。1954年の第25回都市対抗野球大会では「3番・一塁手」として、チームの3位入賞に貢献。3位決定戦の富士鐵釜石(釜石市)戦では、3打数3安打4盗塁と活躍し、10-5の勝利に導いた。翌1955年には第5回日本産業対抗野球大会に出場し、チームの優勝に大きく貢献。同大会の最高殊勲選手に選出された。1961年~1963年まで川崎トキコの監督も務めた。川崎トキコ時代のチームメイトに、鈴木隆(大洋、東京)がいる。
詳細情報
編集年度別打撃成績
編集年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1950 | 国鉄 | 21 | 48 | 45 | 1 | 3 | 2 | 0 | 0 | 5 | 4 | 0 | 0 | 0 | -- | 3 | -- | 0 | 7 | 1 | .067 | .125 | .111 | .236 |
1951 | 67 | 167 | 156 | 12 | 30 | 5 | 1 | 0 | 37 | 13 | 9 | 1 | 2 | -- | 9 | -- | 0 | 11 | 6 | .192 | .236 | .237 | .473 | |
1952 | 43 | 44 | 40 | 4 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 4 | 1 | 1 | -- | 3 | -- | 0 | 6 | 1 | .100 | .163 | .100 | .263 | |
通算 : 3年 | 131 | 259 | 241 | 17 | 37 | 7 | 1 | 0 | 46 | 18 | 13 | 2 | 3 | -- | 15 | -- | 0 | 24 | 8 | .154 | .203 | .191 | .394 |
背番号
編集- 26 (1950年 - 1952年)
脚注
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 久保吾一 - NPB.jp 日本野球機構
- スワローズ人物球団史(24)久保吾一 - ウェイバックマシン(2015年4月2日アーカイブ分) 野球史探求のHP