メインメニューを開く
樺太・久春内郡の位置(1.久春内村 2.珍内町)

久春内郡(くしゅんないぐん)は、日本の領有下において樺太に存在した

当該地域の領有権に関しては樺太の項目を参照。

目次

歴史編集

郡発足までの沿革編集

鎌倉時代室町時代には蝦夷管領安東氏が唐子と呼ばれる蝦夷を統括(『諏訪大明神絵詞』も参照)。唐子の居住地は、近世の西蝦夷地に相当する北海道日本海側や北海岸および樺太南部で、蝦夷管領の代官武田信広に献上品を送り配下になったという。

江戸時代の久春内郡域は西蝦夷地に属し、慶長8年(1603年宗谷に置かれた役宅の管轄を経て、貞享2年(1685年宗谷場所に含まれた。宝暦2年(1752年)ころ樺太南端のシラヌシにて交易が開始され、寛政2年(1790年)樺太南端の本斗郡好仁村白主に幕府はここに勤番所を置き、松前藩商場(場所)を開設。当時の久春内郡域の最寄はエンルモコマフ(真岡郡真岡町)に交易の拠点が開設されており、住民に対する撫育政策(オムシャ)などを通じ、地元の有力者を乙名などの役職に任じ、働けない老病者に薬や扶持米の支給なども行った(場所請負制江戸時代の日本の人口統計も参照)。役職に就いた者は役蝦夷と呼ばれた。場所請負人は阿部屋村山家

18世紀後半、ナヨロ(泊居郡名寄村)の惣乙名が、交易相手のスメレンクル夷山丹人を殺害し、これをきっかけにライチシカ(三浜村)のアイヌ乙名も満州に朝貢を強いられた。また郷長(ガシャン・ダ)の称号を与えられ(冊封、参考:漢委奴国王印倭の五王足利義満#勘合貿易と北山文化日本国王琉球王国#歴史も参照)、数年に一度満州に出向いていた[1]。しかし、交易で山丹人に対する借財が増え、アイヌは困窮し満州に連れ去られる者も多かったという。

寛政12年(1800年)樺太場所は松前藩主の知行する直営地であった。文化4年(1807年文化露寇が発生し、樺太を含む西蝦夷地全域が公議御料(幕府直轄領)になった(〜1821年第一次幕領期)。文化5年(1808年)会津藩が樺太警固についた。文化6年(1809年)西蝦夷地から分立し、樺太が北蝦夷地となる。この年から弘前藩が警固に当たり、栖原家伊達家と共同で北蝦夷地(文化6年6月、樺太と改称)場所を請負った[2]。また、松田伝十郎の改革[3]が行われ、以降、山丹交易は幕府直営となり白主会所のみで行われることとなった。山丹交易改革後、支払いできない分を幕府が肩代わりしアイヌは借財から開放されたが、満州渡航を禁じられた。その後、労働条件は過酷だったが漁場などで就労する者もいた。

しかし、文政4年(1821年)には松前藩領に復した。松前藩復領後、安政3年(1856年)に松浦武四郎真縫久春内線の前身にあたる道を通り轟峠を越えて久春内郡域を訪れ、本斗安別線の前身にあたる道でライチシカまで踏査。武四郎は郡域内の三浜村(小田洲、恵比寿)、久春内で宿泊。安政3年の武四郎は幕吏として、箱館奉行所の支配組頭・向山源太夫に同行し渡樺した。

嘉永7年(1854年)刊行の『鈴木重尚 松浦武四郎 唐太日記』に記載される当時の状況の一部は下記のとおり。

  • 久春内村
    • クシュンナイ川上流・・・上川伝次郎が分水嶺のチベアケ(カモイコタン)に打った、東岸との境界票
    • クシュンナイ(久春内)・・・アイヌの家4~5軒

○北蝦夷餘誌(安政3年、1856年の状況)

  • 三浜村
    • ヲタス(小田洲)・・・宿所、
    • ライチシカ(来知志)・・・石清水八幡
松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分[4]

田沼意次治世の天明6年(1786年)には普請役下役の大石逸平が調査のためクシュンナイまで踏査。 寛政2年(1790年)松前藩の藩士高橋清左衛門(壮四郎)は場所請負人の船で樺太に赴き、久春内に到達(『村山家文書』)、翌年西岸のライチシカ(三浜村来知志)北方のコタンウトル(鵜城郡鵜城村古丹)まで踏査した。次いで寛政四年(1792)には最上常矩(徳内)により、樺太西岸のクシュンナイまで、安政元年(1854)6月、目付堀利照・勘定吟味役村垣範正らが西は来知志湖南隣のライチシカまで調査した。慶応元年(1865年)樺太詰めの箱館奉行支配在住・岡本監輔は足軽西村伝九郎とともに北知床岬を廻り樺太北岸を周廻。樺太北端のガオト(鵞小門)岬に達し、西岸経由でクシュンナイに帰着。

樺太直捌場所の分立[5][6]

安政年間(1854年1860年)以降、西浦(西海岸)はノタサンより奥地が幕府直捌となる。安政3年(1856年)箱館奉行は鳥井権之助を北蝦夷地差配人に任命。同年、総勢18人の調査隊は、上陸したマアヌイ(栄浜郡白縫村真縫)からマアヌイ河沿いに西海岸のクシュンナイに達し、そこから北上。6月27日にライチシカ湖を探査、6月30日クシュナイに戻りさらに南下し、7月21日シラヌシに到着、8月4日宗谷、9月8日箱館着(敦賀屋文書)。 安政4年西海岸のクシュンナイ、ウシュロなどでも予想を上回る豊漁であったという。 安政4年(1857年)クシユンナイ等で多くの土方、木挽き、大工、鍛冶、番人、漁夫などが越冬した。 しかし厳しい酷寒による脚気や栄養失調で越冬者45人中24人が死亡する悲劇となった。  安政5年(1858年)クシュンナイ周辺が箱館奉行石狩役所の直捌場所(石狩御直場所)となり、箱館奉行調役荒井金助、並城六郎をクシュンナイに派遣し漁場を開設。漁場の状況については北海道におけるニシン漁史も参照されたい。

※漁場の経営は後に栖原家が取捌を引継ぐこととなった。

幕末の状況について、「北海道歴検図」[7]のカラフトの部分の絵図と松浦武四郎の「北蝦夷山川地理取調図」等[8]では、会所(運上屋)・役宅について、権之助の義兄松川弁之助が西浦のクシュンナイ(久春内村)に取締所を建てた。クシュンナイにはオランダ式のストーブ4器を配置[9]

幕末当時の宗教施設や漁場については下記のとおり。

○西浦の神社[10][11]

  • 三浜村・・・ライチシカ(来知志)石清水八幡八

○西浦漁場(南方より順次記載)慶応3年12月 栖原家十代寧幹時代の樺太漁場[12]

  • 久春内村・・・クシュナイ(久春内村)、コモシララヲロ(小茂白)
  • 三浜村・・・ルウクシナイ(留久志)

※クシュナイに番屋(漁番屋)が存在した。

幕末の樺太警固(第二次幕領期)

安政2年(1855年日露和親条約で国境が未確定・現状維持とされ、交渉先送りされた。同年から樺太を含む蝦夷地全域が再び公議御料となり、秋田藩が久春内郡の警固を行い[13]、漁場の番屋に詰める番人を、冬季は武装化して足軽とし警固した。万延元年(1860年)樺太警固は仙台会津・秋田・庄内の4藩となるが、文久3年(1863年)以降は仙台・秋田・庄内の3藩体制となる。慶応3年(1867年樺太島仮規則で樺太全島が日露雑居地とされた。

大政奉還後

慶応4年(1868年)4月12日、箱館裁判所(閏4月24日に箱館府と改称)の管轄となり、同年6月末、岡本監輔、箱館府の公議所(裁判所)の官員をクシュンナイ(久春内)に派遣し、王政復古を布告して出張所を設けた[14]明治2年(1869年開拓使直轄領となり、北蝦夷地を樺太州(国)と改称された。明治3年(1870年)開拓使から分離した樺太開拓使領は、明治4年(1871年)樺太開拓使再統合により開拓使直轄領に戻り、8月29日廃藩置県。明治8年(1875年)、樺太千島交換条約によりロシア領となったが、明治38年(1905年ポーツマス条約締結により日本領に復帰。樺太民政署を経て明治40年(1907年4月1日内務省の下部組織樺太庁の管轄となった。

ロシアの侵出

安政2年(1855年)日露和親条約で未確定のまま現状維持とされ国境画定が先送りとなった後、安政4年(1857年)7月、ロタノスケ率いるロシア軍が上陸したナヨロ(泊居郡名寄村)からクシニンナイ(久春内村)に移動し、クスナイスキー哨所()を建設する事件が発生したが、このときは日本の警護が固く8月1日撤退している。これが久春内郡域における初の侵出である。その後、文久3年(1863年)のアイヌ身柄強奪事件発生当時には、クシュンナイ(久春内村)に滞在するロシア人がいた。慶応元年(1865年)ロシア軍艦が大砲二門を久春内まで運び、強引に揚陸し哨所を築いている(ロシア軍艦対馬占領事件帝国主義南下政策も参照)。慶応2年(1866年)2月23日、箱館奉行の幕吏・水上重太夫氏ら8名が犬ぞりで通りかかると、前年築れたイリンスキー哨所のロシア兵から進路妨害を受けた上、哨所内に拘束される久春内幕史拘束事件も発生。その翌年の1867年樺太島仮規則の締結で樺太全土が日露雑居地となり、クシュンナイも樺太放棄までにロシア人が侵出した。

郡発足以降の沿革編集

参考文献編集

関連項目編集