久能城(くのうじょう)または久能山城(くのうざんじょう)は、静岡県静岡市駿河区根古屋(ねごや)にある日本の城跡。現在は久能山東照宮となっている。

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久能城
静岡県
城跡の久能山東照宮
別名 久能山城、久能寺城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 今川氏?
築城年 1568年永禄11年)以前?
主な改修者 武田氏今福友清
主な城主 今川氏今福友清今福虎孝今福昌和徳川氏
廃城年 1616年元和2年)頃
遺構 曲輪土塁井戸
指定文化財 未指定
(「久能山」として国の史跡[1]
再建造物 なし(久能山東照宮
位置
地図
久能城の位置(静岡県内)
久能城
久能城

概要編集

静岡平野に独立し、駿河湾に面した標高307メートルの有度山日本平)山中の一角、駿河湾に臨む標高210メートルの支尾根に立地する。古代から山岳寺院(久能寺)が開かれた場所であった。山城としては、駿府市街や平野部が全く見えず、眼下に駿河湾を見下ろす場所であることから、もっぱら海上を監視するための城塞であったと考えられている[2]

尾根最上部を平坦にして曲輪が配置されていたとみられるが、現在は久能山東照宮となっており日本平ロープウェイなども造られていることから、近世~近代以降の改変が著しく山城(またはそれ以前の山寺)時代の遺構は尾根西側の一部を除いてあまり残っていないと見られる[3]

築城年代は、武田信玄駿河侵攻を開始し、今福友清虎孝昌和[4][5]が当地に入って久能寺を他所へ移転した永禄11年(1568年)とされるが[6]、これ以前の天文5年(1536年)に起きた今川氏輝の跡目争い花倉の乱の際に、玄広恵探派が当地を拠点としていることから(『高白斎記』)、既に今川氏時代に山寺兼城塞として機能していたとみられる[5]

天正10年(1582年)に武田氏が滅び、今福虎孝が自刃。今福昌和も戦死すると徳川家康の城となった。その後元和2年(1616年)に家康が死去し、御廟所(東照宮)となったことで城としての役割を終えたという[5]

脚注編集

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  1. ^ 「久能山」”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2019年5月10日閲覧。
  2. ^ 松井一明 2009, p. 130.
  3. ^ 松井一明 2009, p. 131.
  4. ^ 柴辻俊六 & 平山優 2007, p. 221.
  5. ^ a b c 松井一明 2009, p. 132.
  6. ^ 久能山東照宮と久能山城”. 大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ. 家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて. 静岡市. 2019年5月10日閲覧。

参考文献編集

  • 柴辻俊六、平山優『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年、221頁。ISBN 978-4404034243
  • 松井一明「久能城」『静岡の山城ベスト50を歩く』加藤理文(編集)・中井均(編集)、サンライズ出版、2009年、130-133頁。ISBN 978-4883253913

関連項目編集