久野統一郎
久野 統一郎(くの とういちろう、1937年4月2日 - 2020年1月8日)は、日本の政治家。位階は従四位。旭日重光章受章。
久野 統一郎 くの とういちろう | |
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生年月日 | 1937年4月2日 |
出生地 | 愛知県知多市 |
没年月日 | 2020年1月8日(82歳没) |
出身校 | 早稲田大学 |
前職 |
日本舗道社員 日本道路公団職員 衆議院議員秘書 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
従四位 旭日重光章 |
親族 | 父 久野忠治 |
選挙区 |
(旧愛知2区→) 愛知8区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1990年2月18日 - 2000年6月2日 |
来歴・人物
編集愛知県知多市に生まれる。東海中学校・高等学校から早稲田高等学院に転校。早稲田大学理工学部土木工学科卒業。
大学卒業後は日本鋪道(現NIPPO)、日本道路公団などに勤務し、高速道路などの道路工事の現場責任者として活躍する。竹下登の中部地区担当の私設秘書を務めた。
1990年2月18日に行われた第39回衆議院議員総選挙に、政界引退を表明した父忠冶の後継者として、自民党公認で旧愛知2区から立候補。最下位ながら初当選した。2月19日から20日にかけて、前知多町議会議員の森下藤一や後援会支部役員らが買収容疑で逮捕されたが、自身は刑事罰を免れた[1][2][注 1]。当選後は経世会(竹下派)に所属した。
1993年の総選挙で再選。1996年の総選挙では新進党新人ら4候補を破り、3期目の当選を果たした。
国土政務次官、自治政務次官、自民党副幹事長などを歴任した。当選当時の愛知県は2005年の愛知万博や中部国際空港の開港を控え、統一郎は建設族・国土族の議員として、中央と愛知県のパイプ役として大いに期待されていた(道路公団唯一の生え抜き議員といわれていた)。また、国土政務次官在任時に発生した阪神・淡路大震災では災害対策本部長を任され、実際に被災地に数か月も留まり、復興に尽力した。
しかし、2000年の第42回衆議院議員総選挙を前に「自分は政治家に向いていない。親父の跡を継いで10年間一生懸命がんばったがもう限界だ」と述べ、政界を引退した[7]。後継は10歳年上の元環境庁長官で参議院議員の大木浩であった(結果は当選)。
引退理由の中には、1990年代の政界の激動(自民党が下野し細川連立政権の発足、自民党が政権復帰後のいわゆる自自連立政権、自自公連立政権、自公保連立政権)に国会議員として納得がいかないということもあった[7]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 『中日新聞』1990年2月20日付朝刊、31面、「愛知2区でも逮捕者 久野派の前町議」。
- ^ 『中日新聞』1990年2月21日付朝刊、31面、「後援会役員 買収で逮捕 愛知二区久野派」。
- ^ a b 『中日新聞』1990年2月22日付朝刊、31面、「田辺氏(愛知一区)浅野氏(愛知五区)の秘書も」。
- ^ 『中日新聞』1990年2月22日付朝刊、31面、「愛知二区選挙違反 丹羽氏の妻と長男逮捕 春日井市議らに現金 全員が返却」。
- ^ 『中日新聞』1990年2月20日付朝刊、31面、「江崎氏の秘書逮捕 愛知3区の選挙違反 買収、2人に40万円余」。
- ^ 『中日新聞』1990年2月27日付朝刊、11版、31面、「杉浦氏派違反の後援会事務局長 強引に金権指揮 怖さ知らず〝実弾攻勢〟 63年の市長選で選対幹部が分裂 初めて表舞台に」。
- ^ a b 小林照幸『政治家やめます。 ある自民党代議士の十年間』毎日新聞社、2001年。
- ^ 「春の叙勲 中綬章以上と在外邦人、外国人叙勲の受章者一覧」『読売新聞』2007年4月29日朝刊
- ^ 「ある世襲議員の決断=佐藤千矢子」『毎日新聞』毎日新聞社、2023年6月9日。2024年11月3日閲覧。「3年前に82歳で他界」
- ^ 「今日の視角 餅代、氷代の使途(小林照幸)」『信濃毎日新聞』信濃毎日新聞株式会社、2024年2月1日。2024年11月3日閲覧。
- ^ 「「子分の面倒を領袖がみる、いまも」 二世議員取材の作家が語る政治」『朝日新聞』朝日新聞社、2024年10月13日。2024年11月3日閲覧。
- ^ 「【産経抄】12月23日」『産経新聞』産業経済新聞社、2020年12月23日、朝刊、1面。2023年6月4日閲覧。「久野さんは今年1月に82歳で亡くなった。」
- ^ a b 『官報』第189号10頁 令和2年2月13日号