乙島村

日本の岡山県浅口郡にあった村

乙島村(おとしまそん)は、かつて岡山県浅口郡にあったである。1902年明治35年)9月30日玉島町柏崎村と合併し消滅した。現在は倉敷市玉島地域玉島乙島にあたる。

おとしまそん
乙島村
廃止日 1902年(明治35年)9月30日
廃止理由 新設合併
玉島町、柏崎村乙島村玉島町
現在の自治体 倉敷市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中国地方山陽地方
都道府県 岡山県
浅口郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
乙島村役場
所在地 岡山県浅口郡乙島村
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概要 編集

古代においては、『和名抄』記載の備中国浅口郡間人郷の一部であったされている。古くから漁村として漁業を主産業としていた。[1]

江戸時代の寛永19年、備中松山藩主の水谷勝隆の時代から乙島はその領分となった。正保時代に作られた古図に乙島村二百石六升六合松山領との記載がある。 元禄6年には幕府領に移管され、倉敷支配所の配下となった。元禄の検地には、乙島村二百石五升五合、井ノ浦塩浜八十八石五升とあり、この頃に塩田の開発も行われている。 元禄15年に遠江浜松藩の飛地領に変わったが、享保14年に再び幕府領倉敷支配所管轄となった。[1]

18世紀後半の寛政年間に当地の庄屋・守屋十左右衛門が主導し、子・孫の3代にわたり新田開発が行われた。幕末までに新たに150町歩を造成し、狐島とともに陸続きとなった。この新田を乙島内新田と呼んだ。当初、新田干拓計画は江戸初期に松山藩主水谷勝宗が計画したが、領主の交代などで事業が進まなかった。その後、1758年(宝暦8年)には、近隣の阿賀崎新田村の藤九郎が倉敷代官所に新田開発を願い出たが、上流14村の名主や庄屋の反対に合い、再び実現できなかった。そして寛政年間になりやっと実現した。[2]

『備中村鑑』には、乙島村900石3斗1升8合6勺、守屋勝太郎と記載されている。[1]

明治になると、狐島の東半分を上成村へ割譲、また玉島村の一部を乙島村へ編入した。その後、明治35年に乙島村は玉島町へ編入。のち玉島市を経て、新しい倉敷市となり現在に至っている。[1]

昭和9年に坂田新田(56ヘクタール)を干拓、同18年に養父ヶ鼻周辺を埋立てて太平新開(33ヘクタール)を造成し、浦賀重工業を誘致した。さらに高梁川河口西側の大型干拓が国営事業として行われ、玉島レイヨン(のちの倉敷レイヨン)を中心とした興行千葉開発された。続いてその沖合が干拓・埋め立てされ、水島から一連をなす工業地帯(水島臨海工業地帯E地区)の造成となった。[1]

これら一連の干拓や埋立造成により、現在の乙島中南東部・高梁川河口西岸の広大な平地が生まれた。

歴史 編集

 
旧市街(中央右)と新倉敷駅前(左奥)

年表 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 巌津政右衛門『岡山県地名事典』日本文教出版社
  2. ^ 岡山県大百科事典編集委員会『岡山県大百科事典』山陽新聞社
  3. ^ 床上浸水811世帯2,123人、床下浸水611世帯1,625人。死者1名。
  4. ^ 床上浸水19世帯49人、床下浸水215世帯547人。

参考文献 編集

  • 巌津政右衛門『岡山地名事典』(1974年)日本文教出版社
  • 岡山県大百科事典編集委員会『岡山大百科事典』(1979年)山陽新聞社
  • 渡辺光・中野尊正・山口恵一郎・式正英『日本地名大辞典2 中国・四国』(1968年)朝倉書店
  • 下中直也『日本地名大系第三四巻 岡山県の地名』(1988年)平凡社
  • 黒田茂夫『県別マップル33 岡山県広域・詳細道路地図』(2010年)昭文社
  • 大田茂弥『郷土史講座テキスト玉島地方史 上』(1988年)玉地方研究会

関連項目 編集