亀井 茲方(かめい これかた)は、石見津和野藩の第10代藩主。津和野藩亀井家11代。

 
亀井 茲方
時代 江戸時代後期
生誕 文化14年2月27日1817年4月13日
死没 弘化3年2月9日1846年3月6日
改名 桂次郎(幼名)、茲方
戒名 豊鶴院殿翺翔玄空大居士
墓所 島根県鹿足郡津和野町亀井家墓所
官位 従五位下、能登
幕府 江戸幕府
石見国津和野藩
氏族 亀井氏
父母 父:亀井茲尚、母:阿部正識の娘・明子
兄弟 亀井茲温、姉(亀井茲清室)、哲五郎、茲方阿部正身、妹(毛利高泰室)
松平康任の娘
養子:茲監
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生涯 編集

文化14年(1817年)2月27日、第9代藩主亀井茲尚の三男として江戸で生まれる。天保元年(1830年)12月に従五位下、能登守に叙位・任官する。そして同年同月に父が死去したため、天保2年(1831年)3月6日に家督を継いだ。しかし若年のため、しばらくは江戸に滞在した。天保2年(1831年)8月に長州藩で一揆が起こると、津和野藩は国境の警護に努めている。桜田組防火役を務めた後の天保5年(1834年)には江戸城二の丸修復手伝い普請をはじめ、天保7年(1836年)には大洪水の被害を受けてその対応に追われるなど、藩政は多難を極めた。一方で幕末の動乱を早くから感じ取り、天保8年(1837年)には武器奉行・細工奉行を設置するなどしている。

天保10年(1839年)6月21日、病気を理由に家督を養子の茲監に譲って隠居する。弘化3年(1846年)2月9日、江戸で死去した。享年30。

豊鶴という画号を称した画人であり、書画をはじめ、琴や碁に優れた才能を持った文化人であった。