亀居城(かめいじょう)は、広島県大竹市小方にあった日本の城平山城)。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に安芸国に入った福島正則が、長門国周防国毛利氏への押さえとして築城した。大竹市指定史跡[1]

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亀居城
広島県
亀居城の石垣
亀居城の石垣
別名 小方城
城郭構造 平山城
天守構造 詳細不明
築城主 福島正則
築城年 慶長13年(1608年
主な城主 福島氏(山田小右衛門・森佐助)
廃城年 慶長16年(1611年
遺構 天守台、曲輪、石垣、土塁、堀切、井戸
指定文化財 大竹市指定史跡[1]
再建造物 なし
位置 北緯34度14分25.5秒 東経132度12分58.4秒 / 北緯34.240417度 東経132.216222度 / 34.240417; 132.216222座標: 北緯34度14分25.5秒 東経132度12分58.4秒 / 北緯34.240417度 東経132.216222度 / 34.240417; 132.216222
地図
亀居城の位置(広島県内)
亀居城
亀居城
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歴史・沿革 編集

関ヶ原の戦いにより、福島正則は安芸国へと移封され、広島城に入った。関ヶ原の戦いに敗れたとはいえ、毛利氏長門国周防国36万石を領し、徳川氏豊臣氏の争いもまだ決着を見ていない不穏な状況であった。そのため毛利氏の上方への侵攻を防ぐために安芸国西部に城を造ることとなった。1603年(慶長8年)に山陽道を押さえる要地に築城が開始され、5年もの歳月をかけて、非常に巨大な堅城として完成した。城主は福島伯耆[注釈 1]で、山田小右衛門と森佐助の両名が城代として城に入った[5][3]

豊臣氏と徳川氏の軍事的衝突の危機が高まると豊臣恩顧の福島氏への徳川氏の圧力が非常に強くなり、正則は徳川氏の意向に従うこととなった。結局、亀居城は完成よりわずか3年後の1611年(慶長16年)に破却され、その役目を終えた。

天守や主要な建造物は撤去され、城地はそのまま荒れるに任され草木に埋もれていった。しかし1977年(昭和52年)に発掘調査がなされ、徐々に修復が進み亀居公園として整備された[6]。1983年(昭和58年)11月4日に市の史跡となり[1]、現在はの名所として市民に親しまれている。

構造 編集

標高88メートルの山上に築かれた平山城で、築城当時は本丸、二の丸、三の丸、有の丸等の曲輪を備え、江戸時代の資料に拠るとその面積は10ヘクタールに及んだとされる。現在は海から多少離れた位置にあるが、築城当時は海に面して港を備え、山陽道を城内に取り込む構造となっていた。その築城手法は朝鮮出兵時の倭城と共通点がある。

広島城の支城としては、非常に巨大な堅城であったため、それが徳川家康の疑念を招き、福島氏の没落の一因となった。

画像 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 福島伯耆は、別所重宗福島正則の姉の子で正則の養子となった福島正宣[2]、または正之[3]、あるいは正則の弟・長則の子の福島正信とされる[4]

出典 編集

  1. ^ a b c 「大竹市内の文化財」大竹市公式HP
  2. ^ 田部井鉚太郎『福島正則伝美和村教育会、1917年、40、78頁。全国書誌番号:43013783https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945137/31 
  3. ^ a b 広島県 編『広島県史 近世1 通史III』広島県、1981年、70–71頁。全国書誌番号:82016774 
  4. ^ 福尾猛市郎; 藤本篤『福島正則』中央公論新社中公新書〉、1999年、136頁。ISBN 4-12-101491-X 
  5. ^ 大竹市役所 編『大竹市史 本編 第一巻』大竹市役所、1961年、136–137頁。全国書誌番号:63003572 
  6. ^ 「亀居公園」大竹市公式HP

関連文献 編集

  • 「戦国の堅城 毛利を封じ込める水陸両用城郭 芸州 亀居城」『歴史群像』第45号、学習研究社、2001年。 

関連項目 編集