二条定高

1190-1238, 鎌倉時代前期の公卿

二条 定高(にじょう さだたか)は、鎌倉時代前期の公卿藤原北家勧修寺流九条家参議九条光長の子。官位正二位権中納言按察使。二条東洞院に邸宅を有していたため「二条」と称される。

 
二条定高
時代 鎌倉時代前期
生誕 建久元年(1190年
死没 暦仁元年1月22日1238年2月8日
改名 忠長(本名)→為定→経光→定高
別名 九条三位
官位 正二位権中納言按察使
主君 九条道家
氏族 藤原北家勧修寺流九条家
父母 父:九条光長、母:藤原朝親
猶父:海住山長房
兄弟 海住山長房定高
正室:藤原親雅
九条忠高九条有経
和徳門院女房按察、花山院定雅室、
吉田為経室、姉小路顕朝室、
尚侍家女房中納言局、一条実経
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経歴 編集

建久9年(1198年土御門天皇即位に伴って六位蔵人に補せられ、まもなく従五位下叙爵する。建仁2年(1202年遠江守に任ぜられると、伊賀守越後守肥前守と地方官を歴任し、この間建仁4年(1204年)従五位上、建永2年(1207年正五位下と昇進した。

承元3年(1209年)兄・海住山長房の参議辞任による譲りを受けて右少弁に抜擢されると、同年に正五位上・左少弁、建暦元年(1211年従四位下・左中弁、建保元年(1213年)従四位上と弁官を務めながら順調に昇進し、建保2年(1214年)に右大弁蔵人頭に任ぜられた。また同年には安房国知行国として与えられている。

建保6年(1218年)参議兼左大弁に任じられ公卿に列すと、承久元年(1219年従三位、翌承久2年(1220年)には上席の参議であった藤原定家藤原経通中山忠定を超えて権中納言に昇った。

従四位下の位階を譲られるほど葉室宗行と親しかったが、承久3年(1221年)に発生した承久の乱において、定高は兄・長房と共に後鳥羽上皇の挙兵に反対する立場に回り、宗行と運命を分けた。九条道家からの信頼が厚く、承久の乱後にはその政治顧問の最上位を占めて平経高らと道家を支えた。鎌倉幕府からは好意的に見られ、関東申次であった道家の下で実際の幕府との交渉を行っていたのは全て定高であったとされている。また、斎宮であった後鳥羽上皇の皇女凞子内親王深草の別邸で引き取ったことでも知られている。貞永元年(1232年正二位に昇るが権中納言を辞任、嘉禎2年(1236年按察使に任ぜられる。

暦仁元年(1238年)正月21日に病のために出家、翌22日薨去享年49。

官歴 編集

公卿補任』による。

系譜 編集

参考文献 編集

  • 本郷和人「二条定高」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社1994年ISBN 978-4-02-340052-8
  • 本郷和人「廷臣小伝」『中世朝廷訴訟の研究』東京大学出版会1995年ISBN 4-13-020107-7
  • 黒板勝美・国史大系編修会 編『公卿補任』全5巻・別巻1、吉川弘文館新訂増補国史大系〉。
  • 黒板勝美・国史大系編修会 編『尊卑分脈』全4巻、吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉。