本来の表記は「井原髙忠」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

井原 高忠(いはら たかただ、1929年昭和4年)6月6日 - 2014年平成26年)9月14日)は日本テレビプロデューサー

日本テレビのプロデューサーとして知られ、同局で制作局次長、第一制作局長を歴任後、井原高忠事務所を設立し取締役を務めた。

ザ・ピーナッツとんねるずのユニット名の考案者としても知られる。

略歴編集

日本テレビ入社まで編集

東京府北豊島郡滝野川町王子(現在の東京都北区王子)にて、本村町三井家三井財閥のオーナー一族)の分家に生まれ、世田谷区の1000坪の邸宅に育つ。父は本村町家初代当主の次男で、分家した際に井原姓を名乗る。

戦前戦後を通じてアメリカ映画に熱中し、フレッド・アステアのタップ映画や、ローレル&ハーディの喜劇映画などから影響を受けた。旧制学習院中等科在学中に成績不良で落第し、5年生を2度経験。旧制学習院高等科在学中、学制改革に遭遇。1949年(昭和24年)、新制学習院大学の入試に失敗して1年間浪人生活を送っていた時、鳥尾敬孝黒田美治と共にウェスタンバンド「チャックワゴン・ボーイズ」を結成し、ベース奏者として活躍。その浪人後、慶應義塾大学文学部に補欠入学。学業の傍らベース奏者として駐留軍キャンプなどを廻る。チャックワゴンボーイズは後に「ワゴンマスターズ」に発展的解消をし、ここで後にホリプロを創業する堀威夫や、小坂一也らと出会う。

朝日新聞社社主の村山龍平を筆頭とする村山家の親類という縁により[注 1]1953年(昭和28年)6月、開局準備中の日本テレビ音楽部でアルバイトをする。

日本テレビ在職時代編集

1954年、大学卒業後、新卒第1期社員として日本テレビに入社。同期に金原二郎がいる。1956年には、ワゴンマスターズの後輩だった堀の紹介で秋元近史を日本テレビに入社させ、ADとして使う[注 2]

1958年草笛光子をメインに据えた『光子の窓』でディレクターとしてデビュー。放送作家として永六輔を起用。

1959年2月、まだ日本人の海外渡航が困難だった時期に、NBCのスペシャル番組「ジャパン・スペクタクル」のスタッフとして渡米。ロサンゼルスニューヨークを廻り、NBCの「ペリー・コモ・ショー」やCBSの「エド・サリヴァン・ショー」といった著名な番組の制作現場を見学。アメリカのテレビ局からバラエティ番組制作のノウハウを持ち帰り、これを日本のテレビ番組で実践。日本におけるバラエティ番組の草分けとなった。

帰国後、渡辺プロダクション(ナベプロ)創業者の渡辺晋から、当時18歳だった伊藤日出代・月子姉妹を紹介され、「エミ・ユミ」の芸名と「ザ・ピーナッツ」のグループ名を付ける。

1960年10月30日放送の『光子の窓』では、カラーVTRを国内放送局として初めて使用した「イグアノドンの卵」を制作。テレビの可能性と危険性に対する警鐘を鳴らすとともに、その色彩効果に対する芸術性の高さが認められ、第15回文部省芸術祭奨励賞を受賞する。しかし、作家だった永が60年安保前後から反政府デモに熱中して台本の締切を守らなかったため、井原は永を番組から外し、日本テレビ全体からも出入り禁止処分とする[注 3]。これによって一社提供していた資生堂の心象が悪くなり、同年12月、『光子の窓』は打ち切られた。永の後任として『スタジオNo.1』や『シャボン玉ホリデー』などを担当した作家陣からは、小林信彦井上ひさしらを輩出した。

1961年)6月から開始した『シャボン玉』では、ザ・ピーナッツがメイン司会に起用されるが、ザ・ピーナッツはもちろんクレージーキャッツなど出演者の大半がナベプロ所属ということもあり、「ナベプロ帝国」とまで言われた渡辺の経営方針を既に嫌い始めていた井原は関与せず、秋元がプロデュースを担当した。もともと日本テレビ制作局音楽班にはナベプロに近い人物が多く、ナベプロ以外の事務所に所属するタレントの番組を専ら担当した井原は、『シャボン玉』が高視聴率を取り続けた1960年代を通じて、社内で孤立していた。その過程で劇団新派出身の水谷良重の冠番組『あなたとよしえ』、マナセプロダクションに所属していた坂本九の冠番組『九ちゃん!』『イチ・ニのキュー!』などを手がける。

1963年、『夜をあなたに』でラジオ・テレビ記者会賞受賞。1965年)に『11PM』を企画し、不毛の時間帯であった深夜帯を開拓した。しかし、初期の11PMは報道局所管となり、時事解説を中心とする内容だったため全く視聴率を取れなかった。このため構成作家として入った大橋巨泉「何なら俺が変えてやる」と自ら出演を希望し、井原はこれを受け入れ報道局を説得し全面リニューアルさせた。結果番組は大ブレイクし、井原退職後の1990年まで25年にわたり日本のテレビ界を代表する深夜番組として君臨するに至った。1969年には巨泉と前田武彦による『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』をプロデュースした。

1971年10月改編でスタートした「スター誕生!」では、阿久悠から出された企画書に対し、井原はホリプロダクションの経営を軌道に乗せていた堀らを誘い具体化させ、プロデューサーに後輩の池田文雄を据えて実行に移す。ところがナベプロは、1973年(昭和48年)4月改編で『紅白歌のベストテン』と同じ時間帯に、自社主導の『スター・オン・ステージ あなたならOK!』(NETテレビ)をぶつける。渡辺は『あなたならOK』を成功させるため『紅白歌のベストテン』の放送時間変更か打ち切りを要求し[注 4]、井原は当然認めず両者の関係は決裂。ナベプロはすべての自社所属タレントを『紅白歌のベストテン』『スター誕生』など井原が関与した日本テレビ制作番組に出演させないという強硬手段に出る。結局『あなたならOK』は、レギュラー番組としては半年で打ち切りとなった。

この影響で、金曜22時台の放送が予定されていた日本テレビとナベプロ共同制作のバラエティ番組が白紙撤回となり、枠を埋めるべくホリプロや田辺エージェンシー所属のタレントを投入してスタートさせたのが『金曜10時!うわさのチャンネル!!』である。井原は同番組では「制作」(現在のチーフプロデューサーに相当)とクレジットされた。しかし、1979年に打ち切られた際、堀が和田アキ子の降板を相当強引に申し入れたため、和田は日本テレビから一時出入り禁止になるというトラブルもあった。

1973年3月、制作局次長に昇進。1974年に入ると、『スチャラカ社員』や『てなもんや三度笠』などを手掛けた、朝日放送ABC)プロデューサーの澤田隆治が社内で干されているという話を聞き、東京に誘う。澤田は番組制作会社『東阪企画』を設立して社長に就くが、井原も発起人として優先的に仕事を発注するなど、澤田と東阪企画を支援した。

1978年6月、第一制作局長に昇進。『11PM』で苦楽を共にした都築忠彦が、アメリカ合衆国で行われているレイバー・デイ・テレソンを参考として上げてきた『24時間テレビ』を実行に移し、成功を収めたことから、2019年現在でも年1回の特別番組として引き続き放送されている。

日本テレビ退職・渡米編集

井原は50歳になったら会社を辞めると公言していたこともあり、1980年6月6日、自身の51歳の誕生日に胆石の手術を理由にして日本テレビを退職する。同年7月1日赤坂プリンスホテルにて「井原高忠 フェアウェル・パーティ」を開催。以後はハワイ州ホノルルの自宅マンションと東京を往復し、レビューの演出などフリーの立場で活動。

1985年アメリカ合衆国永住権を得てホノルルに定住。地元ラジオ局KOHOで番組制作の顧問としても活躍した。1990年、アメリカの市民権を取得し、米国籍となる。1992年(平成4年)、日テレの系列局である静岡第一テレビのハワイ現地法人・SDTの社長に就任。

20代でパイプカットの手術を受けており[1]、自身には子供がいなかったため、ハワイに移住後、孤児院の18歳のフィリピン人少女を養子縁組して育てていたが、2006年に養女が結婚してアメリカ本土に移ったため、自らもジョージア州アトランタ郊外に移住した。

2014年9月14日、心臓の病気によりアトランタの病院で死去。85歳没[2]

井原の手がけた番組は団塊の世代から絶大な支持を受けていたが、晩年の井原は著書の中で団塊の世代について、馬鹿な教育を受けた最初の世代と厳しく批判している[3]

著書に、自伝『元祖テレビ屋大奮戦!』(1983年文藝春秋)がある。

手がけた番組編集

著書編集

関連人物編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 当時の日本テレビには朝日新聞読売新聞毎日新聞から人が来ていたという。『元祖テレビ屋ゲバゲバ哲学』p.21による。
  2. ^ この理由として、堀は著書の中で井原の健康診断の時に撮影されたレントゲン写真で肺に影が出ていることがわかり、肺結核の可能性もあるとして健康に不安を感じていたと述べている。
  3. ^ 後に解除され『遠くへ行きたい』ではytv制作ということもあって一時レギュラー出演、平成に入ってからの『2×3が六輔』では『光子の窓』のスポンサーだった資生堂が再び一社提供した。
  4. ^ ナベプロ側にも、放送枠確保に当時NET系列局だった毎日放送の社長・高橋信三が動いて再三にわたり調整した経緯から、これ以上放送枠を動かせなくなり、またこの当時は出演者が違っても同一事務所のタレントを表裏に出さない業界慣習があったことから、こうした要求をせざるを得なくなったという事情もあったという(松下治夫『芸能王国渡辺プロの真実。―渡辺晋との軌跡』青志社2007年7月[要ページ番号])。

出典編集

  1. ^ 『元祖テレビ屋ゲバゲバ哲学』p.197
  2. ^ ““ゲバゲバ!”など制作 井原高忠さん死去”. 日テレNEWS24. (2014年9月15日). http://www.news24.jp/articles/2014/09/15/07259178.html 2014年9月15日閲覧。 
  3. ^ 元祖テレビ屋ゲバゲバ哲学