京都御苑

京都市の国民公園及び史跡
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京都御苑(きょうとぎょえん)は京都府京都市上京区にある国民公園京都御所の周囲の緑地を指す。

京都御苑
Kyoto Gyoen National Garden
Sakaimachi-gomon 003.jpg
京都御苑・堺町御門
分類 国民公園
所在地
面積 約65 ha
京都御苑の空中写真(1982年撮影)。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
運営者 環境省
事務所 環境省 京都御苑管理事務所
事務所所在地 京都市上京区京都御苑3
公式サイト 京都御苑
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概要編集

京都市の中心部に位置し、東西南北を寺町通烏丸通丸太町通今出川通に区切られた区域。東西約700メートル・南北1300メートルの範囲で総面積は92ヘクタール。そのうち環境省が管理する国民公園である京都御苑は65ヘクタールである[1]。9ヶ所の御門と6ヶ所の切り通しを持つ。

明治の遷都の際、御所を囲んでいた公家屋敷の大半が引越し廃れてしまったため、その荒廃ぶりを悲しんだ明治天皇の命により緑化を行い住民憩いの場とした[2]。約140あった宮家と公家の邸宅が撤去されて皇宮付属地として整備され、戦後、国民公園として開放された[3]

現在は京都御所京都仙洞御所京都大宮御所築地内は宮内庁が、2005年4月に開館した京都迎賓館内閣府が、それ以外は環境省が管理している。

多くの木々が生い茂る公園内には、京都御所、京都仙洞御所、京都大宮御所、宮内庁京都事務所皇宮警察本部京都護衛署などの宮内庁・皇宮警察関連の施設をはじめ、公家屋敷の遺構、公園の管理を行う環境省京都御苑管理事務所のほか、グラウンドテニスコートもあり、市民の憩いの場になっている。

歴史編集

京都御苑の歴史は明治時代に始まるが、御苑の中心をなす京都御所の禁裏としての歴史は平安時代土御門内裏東洞院土御門内裏)にまでさかのぼることができる[4]。その後、歴代の天皇がここを御所としたのは、明徳3年(1392年)に南北朝が合一した際、土御門内裏が正式な御所として確認されて以降、明治に至るまでである[5]。この間の500数十年、建物は何度も火災で焼失するなど幾多の盛衰があったが、特に室町時代から戦国時代にかけては、見る影もなく荒れ果てた[6]

これらの修築、再建を始めたのは上洛してきた織田信長で、この時代に内裏はかなり大規模な建造が行われたようである[7]。つづく豊臣秀吉の時代には修造のみならず内裏周辺の整備にも力が入れられた[7]天正年間、秀吉は大規模な都市改造の一環として堂上公家をあまねく禁裏(御所)周辺に移住させた。ただし、近年の研究では公家の集住政策は織田信長から引き継いだもので京都の改造とは直接的な関係はないこと、新家の設立による土地不足や経済的な問題によって全ての堂上公家がこの地域に住めた訳ではなかったことも指摘されている[8]

このように、市内の町々に混在していた多くの公家屋敷が禁裏御所を中心に集められて公家町を形成し[7]江戸時代には御料など所領の策定がなされて、仙洞御所女院御所など、殿舎が充実するに至ったが[7]、現在の京都御苑と比べるとまだ随分と狭いものだった[9]。その後、これら公家町の拡張整備のきっかけとなったのが宝永5年の大火1708年)で、この火災によって諸御所や公家屋敷78軒、大名屋敷24軒のほか、禁裏役人の役屋敷などことごとく焼失した[10]。大火後の復興にあたり、丸太町通以北、烏丸通以東に食い込んでいた町家区域を立ち退かせて、その跡地を公卿らに分与し、現在の京都御苑の原型となるような区画が整えられた[9]。ただし、四方の大通りに面して9つの門を配し、それらを石垣でつないで周囲に巡らせた、現在見られるような整然とした矩形に整備されるのは明治に入ってからになる[11]

明治になると明治天皇に従って多くの公家が東京へ移り、華族制度の発足と共に全ての華族の東京移住が義務付けられたことで、公家屋敷はもぬけの殻となり、京都御所周辺は急速に荒廃していった。この状況を憂慮した岩倉具視は、旧慣保存のためにもなることを理由に明治10年(1877年)、御所の保存を建議した。これを受けて京都府は御所を囲む火除け地を確保することを目的に、軒を連ねる旧公家屋敷の空家の撤去と跡地の整備を開始した。これが京都御苑の始まりである。

当初は周囲の土塁と堀を整備するにとどまったが、その後も整備は徐々に進められ、明治16年(1883年)に御苑の管理が京都府から宮内省に移管され後も続けられた。大正天皇大礼が京都御所で行われることになると整備は急進展を見せ、建礼門前大通に大規模な改修工事が施されてほぼ現在の姿になった。

戦後、宮内省が解体されると、昭和24年(1949年)には厚生省の管理運営のもと御苑は国民公園となった。昭和46年(1971年)に各省庁で環境や公害に関係する部署を統合して環境庁が創設されることになると、厚生省の大臣官房国立公園部も環境庁に移るとこになり、これに伴い御苑も同庁の所轄となった。これが環境省に引き継がれて今日に至っている。

建造物・遺構編集

御所・京都仙洞御所および京都大宮御所以外にも、京都御苑には公家の邸宅をはじめとする遺構が数多く残されている。宮家のものとしては南西部に閑院宮家の邸宅が保存されている。北部には桂宮家の邸宅の築地塀と表門と勅使門が残る(内部の建物群は二条城の本丸に移築保存されている)。

閑院宮邸跡編集

 
閑院宮邸

閑院宮載仁親王が明治10年(1877年)に東京に移住するまでの邸宅である。明治16年(1883年)5月に閑院宮邸内に宮内省京都市庁舎の建設がはじめられ、同年12月には現在の形態に近いものが完成した。その後、所管を宮内省から厚生省、環境省と移しながら現在に至る。

建物は、中央の中庭を四つの棟で囲む平面構成となっている。東棟は正面入母屋造千鳥破風の車寄せ玄関がある。南棟は資料展示室・収蔵室になり、南側全体にを付けた大きな瓦屋葺きの反り屋根を持つ。西棟はレクチャーホールで北棟が事務棟となっている[12]。小規模での修繕が繰り返されてきたが、建物全体の破損や狂いが大きくなってきたため、平成15年(2003年)に全体の修復整備を行うこととなった。外観は建設当時の状態の保存をはかりつつ、後補の不必要な部分や内部の模様替え部分を撤去・整備する方針で行われた。平成18年(2006年)3月に完成し、現在の姿となった。

京都御苑の自然や歴史を学ぶことのできる収納展示室があり、庭園を見ることもできる[13]

蛤御門編集

上記の蛤御門は、元々「新在家御門」といい、開かずの扉であったが、1788年天明の大火の際に初めて開門された。この為、「炎で貝が開く」ことの比喩で蛤御門と呼ばれるようになった。また、1864年元治元年)に尊王攘夷派(長州藩)と徳川幕府会津藩)の戦いである禁門の変(蛤御門の変)が勃発した。現在でもこの戦いの傷跡である銃弾の痕が門に残されている。

猿ヶ辻編集

 
猿ヶ辻の様子。角が切られている。 (2014年2月22日撮影)

京都御所の東北角、御所の鬼門にあたるところに御幣を担ぐ山王権現日吉社の猿が浮き彫りにされている。また、角が直角ではなく一部をへこませている。文久3年(1863年)、尊攘派の公家・姉小路公知が暗殺された場所でもある(朔平門外の変[14]

その他の遺構編集

上記の建造物以外には以下のようなものがある。

 
西園寺邸宅跡 (2014年2月22日撮影)
 
九条邸遺構の拾翠亭(しゅうすいてい)の正面戸口
 
奥中央に見えるのは拾翠亭(しゅうすいてい) (2014年2月22日撮影)
 
拾翠亭(しゅうすいてい)の主屋内部
 
白雲神社 (2014年2月22日撮影)
  • 出水の小川
    • 元は女院御所で、のちに嘉陽宮家が一部を使用していた邸宅の庭園の遺構が残り、曲水の宴を催すことができたであろう小川がある。
  • 学習院
  • 桂宮家は現在非公開であるが、閑院宮家と同じく、庭園と池が残っている。

また、五摂家近衛家や九条家の庭園の池である近衛池や九条池は、善く保存されており、かつての公家の生活を偲ぶことができる。

自然編集

京都御苑内には500種以上の植物がある。苑内には約5万本の樹木が生育しており、多くは明治以降に植栽されたものである。マツケヤキシイカシ類、イチョウなどのほか、ウメモモサクラサルスベリなどの花の咲く木も多く、これら多彩な樹々が御苑の風格と四季の彩りをなしている。また、スミレタンポポどの草花やキノコ類も多く見られる。キノコ類は400種以上が確認されており、一年を通じて観察できる。

苑内には動物も多く見られる。野鳥の観測地として知られ、100種以上の野鳥が確認され、そのうち約20種は苑内で繁殖されている。代表的な鳥としてはアオバトビンズイトラツグミゴイサギなどがあげられる。昆虫類も多く見られ、チョウ類55種、トンボ類26種、セミ類8種などが確認できる。

苑内には、自然に親しむ場所として「母と子の森」「トンボ池」「出水の小川」などが整備されているほか、「母と子の森」内の「森の文庫」では植物や生物など自然についての本が置かれたり、閑院宮邸跡の収納展示室で自然や歴史について解説とともに学ぶこともできる。

仙洞御所の池には魚類が生息している。ハゼ類の研究者として知られる上皇明仁は、ここで採取したヨシノボリの遺伝子解析により、ビワヨシノボリとシマヒレヨシノボリの交雑種であることを明らかにした論文を2019年発表した[15]

こうした環境が京都市内の中心部にあることで、散策や花見のほか、バードウォッチングや自然観察会などに多くの人が訪れる場となっている。[16]

その他編集

 
御所の細道

京都の住民は、京都御苑の区域を指して単に「御所」と呼ぶことが多い。

公園内ではのんびりと散歩を楽しむ人やバードウォッチングをする人もいる。御苑の北隣には同志社大学同志社女子大学(両校とも今出川キャンパス)があるため、ベンチで寝転ぶ学生の姿をよく見かける。また、住民の通り抜けルートにもなっているが、通路部分は舗装されておらず、砂利が敷き詰められているため自転車では走りづらい。しかし、自転車の走行跡が砂利道にできて走りやすくなっている部分もある。この走行跡は御所の細道と呼ばれることがある。ただし、走行跡は自転車一台分の幅しかないため、対向車が来た場合は譲り合う光景が見られる[17]

公園内は京都府警皇宮警察が常に見回りをしていて、京都御所や仙洞御所の塀に近づくとセンサーが反応し、すぐに注意される。

公園内への放置自転車が、2010年代に入って目立つようになっている。主に、近隣の京都市営地下鉄丸太町駅の利用者が停めているものと見られている。地元住民からは、公園の美観を損なうなどとして撤去を求める声が強いが、公園内は京都市の撤去条例の対象外となっており、公園管理者である環境省などは対応に苦慮している[18]

アクセス編集

画像集編集

参考文献編集

  • 環境省京都御苑管理事務所編 国民公園協会京都御苑編『国民公園京都御苑 自然と歴史』環境省京都御苑管理事務所、2006
  • 尼崎博正、旧九条邸園池の変遷、瓜生:『京都芸術短期大学紀要』、1983、pp.1 - 17

関連項目編集

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 『国民公園 京都御苑』(環境省京都御苑管理事務所が作成しているパンフレットより、平成24年10月改定)
  2. ^ 意外に知らない御苑のこと 御所との違いを知っていますか上京区役所、上京ふれあいネット「カミング」
  3. ^ 京都御苑概要環境省
  4. ^ 川嶋将生鎌田道隆『京都 町名ものがたり』京都新聞社、1979年、196頁。
  5. ^ 川嶋将生・鎌田道隆『京都 町名ものがたり』京都新聞社、1979年、196、197頁。
  6. ^ 川嶋将生・鎌田道隆『京都 町名ものがたり』京都新聞社、1979年、197頁。
  7. ^ a b c d 川嶋将生・鎌田道隆『京都 町名ものがたり』京都新聞社、1979年、198頁。
  8. ^ 登谷伸宏『近世の公家社会と京都 集住のかたちと都市社会』(思文閣出版、2015年) ISBN 978-4-7842-1795-3
  9. ^ a b 川嶋将生・鎌田道隆『京都 町名ものがたり』京都新聞社、1979年、172頁。
  10. ^ 川嶋将生・鎌田道隆『京都 町名ものがたり』京都新聞社、1979年、170、172頁。
  11. ^ 川嶋将生・鎌田道隆『京都 町名ものがたり』京都新聞社、1979年、173、174頁。
  12. ^ 堂岡實「閑院宮邸跡建物改修工事」(『京都御苑ニュース』83号、2004年9月、財団法人国民公園協会京都御苑)
  13. ^ 京都御苑 御苑案内図(閑院宮邸跡) https://www.env.go.jp/garden/kyotogyoen/2_guide/map2_kaningu.html
  14. ^ 『京都大辞典』(淡交社、昭和59年)
  15. ^ 「天皇陛下がハゼの論文発表 魚類学者として33本目」 日本経済新聞ニュースサイト(2019年4月5日)2019年4月9日閲覧。
  16. ^ 国民公園協会京都御苑編『京都御苑の自然 観察ガイドブック』国民公園協会京都御苑、2010
  17. ^ 京都御苑のサイクルロード(Wayback Machine)
  18. ^ 放置自転車:京都御苑が駐輪場!?市営地下鉄の利用者放置 環境省「条例基づき撤去を」 毎日新聞 2012年9月2日
  19. ^ 二条城の概要二条城
  20. ^ 第3回「京都御苑ずきの御近所さん」葵祭行列保存会会長京都橘大学名誉教授 猪熊兼勝様環境省、2016年7月29日

外部リンク編集

座標: 北緯35度01分23.84秒 東経135度45分47.90秒 / 北緯35.0232889度 東経135.7633056度 / 35.0232889; 135.7633056