京都法学校(きょうとほうがっこう)は、1889年明治22年)に、京都府京都市下京区寺町通四条下ル大雲院内に設立された仏法系私立法律・経済学校である。

歴史 編集

法律学および経済学を教授することを目的に設立された私立学校で、校主には司法省学校卒業後、京都始審裁判所に勤務した山崎恵純が就任。この他、名誉員に京都府知事大審院評定官、京都始審裁判所所長、同検事、京都府警部長らが就いた。

講師の顔ぶれは、校主の山崎恵純のほか、河村善益志方鍛、清水一郎、百瀬武策

その後、入学希望者の増加に対応しきれなくなり、学校規模拡大の計画案が出たものの、京都法政学校(現在の立命館大学)に事実上引き継がれた[1]。山崎恵純は引き続き京都法政学校の教授を務めた。

設立の目的 編集

「法律学科ハ仏蘭西法律ヲ主トシ傍ラ日本現行法ニ及ブモノトス」(京都法学校規則 明治21年(1888年)1月)

脚注 編集

  1. ^ 立命館大学創設者の中川小十郎自筆の覚え書きによると「我が学園が私どもの手で創設されんとしていた少しまえに、京都弁護士会の有志の方にも同様の計画があって、それは大阪における関西大学同様に、京都における官民法曹の仲間での計画であったらしい。当時の弁護士会会長は山崎恵純氏であって、氏は司法省法学校の出身で、当時の弁護士間にはすこぶる重きをなしていた人であった。同様の計画が双方の間に勧められて、そのために事情が面倒になっては面白くないと思ったので、私は直に山崎氏を訪問して、当方における計画の内情を打ち明けて協議をしたのであったが、氏が詳細を聴取された後、直に私どもの計画に賛成されて、先方の計画を中止すべきことを言明せられたのであった。(中略)氏の令息で読売新聞の経済部長である山崎請純氏が、昨年度から本学のために特別講義を引き受けられることになったので、その因縁の浅からざることを不審議に思って、息山崎氏ともこのことを話し合っておるのである」(出典:『中川小十郎と京都帝国大学設立事情および京都法政学校の創立』著・松本皎「立命館百年史紀要 第1号」(131頁))

参考文献 編集

  • 『立命館百年史』第一巻通史 立命館百年史編纂委員会