京都霊山護国神社
京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)は、京都市東山区清閑寺霊山町にある神社(護国神社)。現在は神社本庁の管理を離れた別表神社。神紋は桜に菊。境内の東側は維新の志士らを祀る霊山墓地となっている。
京都霊山護国神社 | |
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拝殿 | |
所在地 | 京都府京都市東山区清閑寺霊山町1 |
位置 | 北緯35度0分0秒 東経135度46分59秒 / 北緯35.00000度 東経135.78306度座標: 北緯35度0分0秒 東経135度46分59秒 / 北緯35.00000度 東経135.78306度 |
主祭神 | 国事殉難者7万3千11柱 |
社格等 | 内務大臣指定護国神社、別表神社 |
創建 | 1868年(明治元年) |
例祭 | 4月28日、10月14日 |
地図 |
歴史
編集文久2年(1862年)、時衆霊山派・正法寺の朱印地の中にある神道葬祭場霊明社[2]において、有志者による殉難者の神葬祭が行われた。祭神は菊理媛神・速玉男命・事解男命の3神(他に相殿3神)である。
慶応4年5月10日(1868年6月29日)、明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)の御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山に佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられた。それに感激した京都の公家や山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩が相計らい、霊山の山頂から山腹にかけてそれぞれの祠宇を建立したのが当社創建のはじまりであり、招魂社の最初でもあった。靖国神社よりも一年古い歴史を持つ。
当初の社号は霊山官祭招魂社と称し、社格にはとくに「官祭社」に列し国費で営繕されてきた。
1929年(昭和4年)には、前年に行われた昭和天皇即位大礼で使用された建物が下賜され、拝殿と斎殿を建立し、いくつもあった祠宇も整備している。
1936年(昭和11年)、日中戦争をきっかけとして国難に殉じた京都府出身者の国事殉難者を合祀して手厚く祀ろうという運動がおき、霊山官祭招魂社造営委員会が組織されると、境内を拡大して新たな社殿の造営が行われることとなった。また、維新の志士らを祀る霊山墓地の整備も行われた。
1939年(昭和14年)4月1日、内務大臣布告によって現在の社号である京都霊山護国神社と改称された。また、本殿、拝殿、祝詞舎、神饌所、斎殿などが完成している。
太平洋戦争に敗北後、当社は国家の手を離れ、神社本庁の別表神社に加列されている。
GHQ占領下においては京都神社に改称していたが、サンフランシスコ講和条約後は元の社名に復した。
戦後、霊山墓地は整備されることなく荒れ果ててしまっていたが、それを見かねた松下電器産業(現・パナソニックホールディングス)会長の松下幸之助は、明治維新百年となる1968年(昭和43年)に自らが中心となって、関西財界人と協力し「霊山顕彰会」を設立。霊山墓地の整備を行い、1970年(昭和45年)に明治維新関係の資料を展示する「霊山歴史館」を開館させた。
2002年(平成14年)、神社本庁との包括関係を解消したが、引き続き別表神社である。
祭神の中には京都で暗殺された坂本龍馬も含まれており、境内に銅像が作られているほか、誕生日であり命日でもある11月15日には、龍馬の遺徳を偲び霊を慰める龍馬祭が行われる(誕生日・命日は本来は旧暦11月15日だが、祭は新暦11月15日に行われる)。
1997年(平成9年)、大東亜戦争(太平洋戦争)を記念した「平和記念公園 昭和の杜」が設けられた。
また、2012年(平成24年)4月には特攻勇士の像が建立された。
当社の南には龍馬の葬式を行った霊明神社がある。
幻の西郷隆盛像建立計画
編集1977年(昭和52年)の西郷隆盛没後100年事業として境内に西郷像を建立する計画が関西在住の鹿児島県出身者らにより立案され、彫刻家・古賀忠雄の手により人物立像としては日本最大の10.5メートルに及ぶ西郷像が1976年(昭和51年)に完成した。しかし、建立の前に依頼者が死去したことにより計画が宙に浮き、この構想は幻となった。
完成した像はそのまま富山県高岡市の倉庫に保管されていたが、1988年(昭和63年)に鹿児島県姶良郡溝辺町(現・霧島市)へ誘致され、現在は周辺一帯が西郷公園として整備されている。
祭神
編集境内
編集- 本殿 - 1939年(昭和14年)4月1日再建。
- 拝殿 - 1939年(昭和14年)4月1日再建。
- 祝詞舎 - 1939年(昭和14年)4月1日建立。
- 神饌所 - 1939年(昭和14年)4月1日建立。
- 斎殿 - 1939年(昭和14年)4月1日再建。
- 社務所
- 東社務所 - 霊山墓地への入口に隣接している。
- 第百十六師団衛生隊顕彰碑
- 嵐第六二二七部隊 輜重兵第百十六連隊顕彰之碑
- 工兵第五十三連隊顕彰碑
- 歩兵第百二十連隊鎮魂の碑
- 第二十三野戦防疫給水部戦没者慰霊碑
- 北支沖縄戦没勇士慰霊碑
- 歩兵第百九連隊顕彰之碑
- 御宸筆歩兵第百九連隊軍旗奉納之地
- 歩兵第百二十八連隊顕彰之碑
- 特攻勇士の像 - 2012年(平成24年)4月造。
- 霊山歴史館 - 1970年(昭和45年)に松下幸之助が中心となり設立、開館。道路を挟んで向かい側にある。
霊山墓地
編集維新の志士らを祀る霊山墓地は境内の東側の山腹にある。
昭和の杜
編集主な祭典
編集交通
編集その他
編集2009年(平成21年)頃から、11月15日の坂本龍馬の命日祭の前後に、一部のファンが龍馬の墓に火のついた煙草を供えるケースが多発している。2009年(平成21年)の命日祭では、100本以上の煙草が置かれたことで濃い煙が上がり、祝詞を上げるのに支障が生じた。龍馬が愛煙家だったかは不明だが、舶来の銃やブーツを所持していたことなどで、外国産の煙草も好んでいたとの考えが広まった可能性がある。同神社の木村隆比古宮司は「せめて火を付けずに置いてほしい」とコメントしている[3]。
同神社は日本画家の小早川秋聲が描いた「戦争画」を所蔵しているが、秋聲の代表作とされる「國の盾」や「御旗」[4]などの戦争画7点は彼の故郷である鳥取県日野町の「日野町美術館」に寄託されている[5]。
注釈
編集- ^ 『岩倉公実記』、1906年(明治39年)。国立国会図書館 NDLJP:781064/251
- ^ 朱印地のため買い取りができず、「永世請け持ち」とされ、建前上は時衆葬とされた。
- ^ 龍馬もけむい、墓前に紫煙モクモク…命日に百本 読売新聞 2010年11月15日
- ^ “小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌”. 京都文化博物館. 2024年9月27日閲覧。
- ^ “小早川秋聲展”. 日野町美術館. 日野町. 2024年9月27日閲覧。