人工内耳(じんこうないじ、英:Cochlear implant)は、聴覚障害者内耳蝸牛に電極を接触させ、聴覚を補助する器具である。

人工内耳の内部構造

装着と訓練により、中途失聴者が一定程度音声を聞き取れるようになったり、聴覚障害のある乳幼児の言語発達を支援できる場合がある。

構成編集

 
実際の利用例、黒色の機器が人工内耳の体外部である。後頭部には磁石によって張り付いている送信コイル、耳の上部から裏にかけて耳掛けマイク(とスピーチプロセッサ)などが見える。

人工内耳はマイクロホン、音声分析装置、刺激電極、電波の送・受信機からなる。マイクロホンが外の音声をとらえ、体外にある音声分析装置で音を電気信号に変換する。電気信号は、非接触で内耳にある電極へ送られ、電極が聴覚神経を刺激する。蝸牛は部位による周波数特異性をもつので、電極は複数個埋め込む。どの電極をどの程度刺激するかは音声分析装置の中のプロセッサが決定する。

人工内耳は通常、どちらか片方の耳につける。これは日本の医療保険制度の為である。自由診療で手術費が負担できるのであれば、両耳装用することにより、音声の立体感など、片耳のみの場合より大きな効果を期待することも可能である。いずれにせよ、医師と患者双方の理解、信頼、リハビリテーションが大きな鍵になる。

効果編集

人工内耳をつけた場合、一般的に90〜100dB以上の音が、35〜40dBぐらいの聞こえ方になる。

電極の数には限界があり、プロセッサのプログラミングにも限界があるので、蝸牛本来の信号は得られないが、現状でも一般的に言えば、かなりの程度で言葉を聞き取ることができるようになる。しかしこれには個人差があり、劇的に聞こえるようになる人もいれば、成人の聾者に多い例だが、中にはあまり効果がなく外してしまう人もいる。すなわち人工内耳は万能の聴力回復技術ではなく、一定の限界がある医療技術であると言える。

失聴時期・施術時期による効果の大小編集

人工内耳の効果の大小は失聴時期と人工内耳手術を行った時期によって大きく左右される。失聴時期が2歳未満の場合は言語習得期前、2歳から4歳の間は周言語習得期、5歳以降は言語習得期後に大まかに分類される。一般的に難聴になった時期は遅いほど、かつ音の聞こえない期間は短いほど、言語を判別できる可能性が高くなる[1]

2歳未満で、あるいは生まれつき難聴の場合、人工内耳手術の年齢が音・言葉判別の能力を大きく左右する。乳幼児の頃に人工内耳を埋め込めば聴者に近いレベルで音を判別する能力を得る可能性が少なくない。一方、ろう者として成長した後の施術の場合には、前頭葉内にある聴覚を司る聴覚皮質が音に対する刺激を受けないまま育っているため、人工内耳を埋め込んでもそもそも音を信号として受け取ることが難しく、言語を理解できるようになる見込みはごく小さい[1]新生児聴覚スクリーニング検査の必要性は、このような観点から主張されることが多い。[要出典]

2歳から4歳程度の言語習得期間に難聴になった場合も、内耳を通して入ってくる音と言語を結びつける脳内のネットワークが未発達な状態で難聴になってしまうため、仮に手術をしたとしても音と言葉を結びつけることが難しく、言語の判別や発話には相当な訓練期間を要する。その後も言語の判別率が低く、読話手話を好む傾向が強い[1]

聴覚による音声言語の獲得後、事故や病気で難聴になった中途失聴者の場合、人工内耳によって言葉の判別は可能となる場合が多い。

人工内耳とQOL編集

黒田は、人工内耳が単に音声言語の使用可能性の問題に留まらず、装用者の生活の質 (QOL:Quality of Life) に大きな影響を及ぼすことを報告している。黒田が調査対象とした中途失聴者の二つの事例においては、人工内耳装用が障害認識・障害受容[2]の面でも大きな効果をもたらした[3]とされている他、職場でのストレスの低減や、鳥や虫の鳴き声に季節を感じるようになったことなどが紹介されている。なお、ここでのろう者とは自然言語としての手話の話者である重度聴覚障害者という定義ではなく、医学的な観点からの聾者という意味である。

また乳幼児の事例においても、音声言語による会話すなわちバーバル・コミュニケーションだけでなく、非言語コミュニケーションすなわちノンバーバル・コミュニケーションの量も飛躍的に増大し、親子ともにQOLが改善したとの報告がなされている[4]

人工内耳と手話・指文字編集

日本における事例では、人工内耳を先天性の重度聴覚障害児が装用した結果、それまで当該児とのコミュニケーションを断念していた親族が積極的に手話や指文字を学んでコミュニケーションを試みるようになったという現象が報告されている[5]

留意点編集

人工内耳の手術においては顔面神経の麻痺や痙攣など若干のリスクが存在している。例えば黒田が報告した、日本の成人女性の二つの事例では、いずれも手術後数ヶ月に渡って顔面神経の麻痺が見られた[6]。宮崎医科大学は1995年までの26件中の症例で2件の顔面神経刺激を報告した[7]

人工内耳を装用したままで一定の水深までであれば、スキューバダイビングを楽しむこともできる。コクレア社のインプラントの場合、25mまでのダイビングが可能である。空港の保安検査場では金属探知機に体内機器が反応するため、人工内耳装用者カードを提示してゲートの横を通ることになる(間違ってゲートを通っても機器が壊れることはない)。2005年日本国際博覧会(愛・地球博)で人工内耳装用者は入場ゲートの金属探知機を通さない配慮も行われ、人工内耳の認知が上がったと一部で話題になった。[要出典]

医療の面では、人工内耳インプラントをしたままの状態で、MRI検査を受診することも条件により可能である。コクレア社、メドエル社のインプラントで1.5テスラまでのMRI検査をインプラント内の磁石を手術ではずすことなく受診することが可能である。ただし個人差があり、人によっては強い痛みを伴う、また、MRIの磁気によるインプラントの磁石の移動や、磁石が磁力を失う脱磁の可能性もあり、MRI検査に関しては薬事承認を受けているとはいえメーカーの言葉を鵜呑みにせず、慎重に判断すべきである。[要出典]

元々聴覚者であり聴覚を失った場合は、埋め込み手術をした後、音に慣れるために1〜2ヶ月ぐらいのリハビリテーションが必要になる。リハビリテーション後は、電話での会話も出来るほどに回復する例も多い。大体5歳以降に難聴になったのであれば言語習得期間後になるため、言語習得機能上は成人とほぼ変わらない[1]

体内に機械を埋め込む事に対して抵抗を感じる人が多いが[8]聴覚を取り戻したい人にとっては有効な手段である[要出典]。日本においては診療報酬も適用される[9]

人工内耳の利用状況編集

人工内耳は器具と手術の費用だけでなくその後の訓練に関する人件費など非常に高額となるため、その使用は健康保険制度等が整った先進国に集中している。欧米では、大人はもちろん、乳幼児につける例が多い。例えば[要出典]鳥越隆士「バイリンガルろう教育の展開-スウェーデンからの報告」によると、スウェーデンでは新たに生まれるろう児の90%は人工内耳手術を受けているとされる[10]

乳幼児への人工内耳手術に関する議論編集

人工内耳が生む神経刺激から言語情報を取り出せるようになるまでには長い訓練と労力が必要とされ、そのために手話に触れることが遅れ、言語獲得に適した時期に手話を母語として獲得するチャンスが阻害される場合がある[11][12]

イギリスで人工内耳の普及を推進するThe Ear Foundation[13]の著者らと英国聴覚障害児協会英語版の著者が2007年に公表した調査で、イギリスの2つの人工内耳センターの生徒から抽出した128名のうち調査に同意した約30名(年齢は13歳から17歳で、人工内耳手術を受けた時期はそれぞれ異なる)に構造化面接法英語版で質問を行い、回答を分析した[14]

  • 生徒の3分の2は音声言語を選好し、3分の1は音声言語と手話を選好している。相手によって音声言語か手話かを柔軟に使い分けできる生徒が大半である。
  • 会話が家族に「常に又はほとんどの場合に」理解されていると感じている生徒が回答者の3分の2程度。
  • 生徒は、聴こえない世界と聴こえる世界の両方に所属していると感じており、そのことをポジティブに受け止めている。
  • 生徒のうち多数が、人工内耳を付けるかどうかの判断に自分の意思が関係しなかったと答えた(18人、62%)。自分の意思が関係したと答えたのは8歳より後に付けた生徒のみであった。自分にかわって親が判断したことについて恨む回答はなく、むしろ肯定的な捉え方が多かった。

Sara Novic英語版は人工内耳は訓練と労力を必要とする機器である点、成人聾者が機器を利用して聴覚言語と読話と手話とを併用することは珍しくない点を指摘し、乳幼児に人工内耳を装着させる判断をする場合も、聴覚言語だけでなく手話の学習環境も与えることを奨励する[12]

全日本ろうあ連盟は2016年の声明で、日本での人工内耳装着児の増加を受けて、聴者である保護者が児童も自分たちと同じ言語で育つことを望む心情は理解できるとした上で、児童が口話でなく手話で育つことは不幸ではないことを保護者らが理解することを希望し、聴力の程度や障害の様態に応じて手話で育つ方が当人に適した選択である可能性や口話と手話のバイリンガル教育の可能性も検討するよう保護者らに呼びかけた[9]

黒田が報告した日本における事例においては、近年でもなお聴覚障害児の保護者が人工内耳装用について検討する際、乳幼児への人工内耳装用に反対する団体の問題が考慮されているという[15]

脚注・出典編集

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  1. ^ a b c d 聴覚・音声・言語障害の取り扱い (Part1) 本庄巌 著 金原出版 ISBN 978-4307370578
  2. ^ 障害者本人が、自身に障害があることを認めることを障害認識、自らの障害を受け容れるようになることを障害受容と呼ぶ。
  3. ^ 人工内耳の手術を行うまでは自身が聴覚障害者であることを受け容れられず、他の聴覚障害者との交流も頑なに阻んでいた人物が、人工内耳装用によってQOLの大幅な改善を見た結果、かつての自分がろう者に極めて近い存在であったことを無意識のうちに認めるようになり、また同障者との交流も行うようになった。黒田、前掲書、98ページ
  4. ^ 黒田、前掲書、146-151ページ
  5. ^ 黒田、前掲書、157-159ページ
  6. ^ 黒田、前掲書、52-54ページ
  7. ^ 内耳臨床 人工内耳術後の顔面神経刺激症例の検討
  8. ^ 黒田生子『人工内耳とコミュニケーション』ミネルヴァ書房、2008年、ISBN 978-4623050376、50-51ページ
  9. ^ a b 全日本ろうあ連盟 » 全日本ろうあ連盟の人工内耳に対する見解 掲載日:2016年12月01日。2019年11月21日閲覧。
  10. ^ 鳥越隆士(兵庫教育大学)『バイリンガルろう教育の展開-スウェーデンからの報告』(1)(2)(3)(4)
  11. ^ "Sticky: Taboo topics in deaf communities" in The Oxford Handbook of Taboo Words and Language (Janmi N. Fisher, Gene Mirus and Donna Jo Napoli英語版)
  12. ^ a b Opinion | A Clearer Message on Cochlear Implants - The New York Times Sara Novic英語版 2018年11月21日。2019年11月21日閲覧。
  13. ^ The Ear Foundation | Our Story
  14. ^ Wheeler, A., Archbold, S., Gregory, S.: "Cochlear implants: young people's perspective", The Ear Foundation & The National Deaf Children's Society, 2007 [1]
  15. ^ 黒田、前掲書、142-145ページ

関連文献編集

日本語のオープンアクセス文献

関連項目編集

外部リンク編集