メインメニューを開く
仁井田益太郎

仁井田 益太郎(にいだ ますたろう、1868年11月18日明治元年10月5日)- 1945年1月17日)は、日本法学者法学博士裁判官弁護士京都帝国大学法科大学教授東京帝国大学法科大学教授を歴任。

目次

人物編集

守山藩士県吏仁井田隠重の長男。妻は貴族院議員奥山政敬の娘アイ、甥のは中国法制史家、東大教授。

富井政章付きの民法典起草補助委員として活躍し、ドイツ民法草案第一・第二を翻訳して富井に提供したほか、各国の法制度を調査して貢献した。

他の起草補助委員との合著『帝国民法正解』は、民法典施行後出版された最初の書物であり、大体純粋なドイツ法学派の見解から書かれたものであった[1]

京都帝国大学では民事訴訟法商法の講座を担当し、東京帝国大学では民事訴訟法、民法、ドイツ法の講座を担当。

民法典成立に関する所感編集

民法典起草に当たった関係者として、当時の事情に関する証言を残している。

民法典論争については、穂積陳重が主張したような歴史学派自然法学派の[2]「高尚」な学問的争いといったものではなく、仏法派と英法派の勢力争いに過ぎなかったと断じている[3]

日本法におけるフランス民法ドイツ民法(草案)の影響については、(仏法系の)「旧民法は相当の勢力を持つて居つたのです。旧民法の此処が悪いと云ふ事を批評して、然る後此処は斯う修正すべきものであると云ふ事を必ず起草委員は説明して居る。「旧民法」を「修正する」と云ふ建前ですから必ず先づ旧民法を攻撃して然る後に修正原案を維持する訳を述べた。ですから、旧民法の採るべき所は採ると云ふ事に勢いなる訳です。殊に親族法・相続法は相当に日本慣習を参酌して出来たものですから、親族・相続法は旧民法に大分似て居ります」としながらも[4][注 1]、「大体ドイツ法的思想で民法は出来た訳ですけれども、偶にはフランス法の考えの入った所がある[注 2]。どちらかというとさんの手に成った部分がそうです。穂積さんは公平などちらにも偏らずと云う態度であったと思います。富井さんは寧ろドイツ法一点張りで行こうと云う気分が見えたようです」としており[5][注 3]、後世の星野英一らの主張とは異なり、「ドイツ法思想の日本民法学が出来る基礎は、民法そのものにある。」と、日本民法のドイツ法的解釈傾向につき肯定的な立場を明らかにしている[6][注 4]

エピソード編集

瀟洒な振る舞いで学者としては傑出した社交性を持つ一方で、文章は一本調子であり、我妻栄も、仁井田の小著は大著の抜き書きに過ぎず、回りくどい文体でひどく悩まされたと回想している。

「仁井田益太郎は法学博士なり。故に法学博士には仁井田益太郎あり。仁井田益太郎は東京大学教授なり。故に東京大学教授には仁井田益太郎あり。右に述べたるところによれば、仁井田益太郎は法学博士にして東京大学教授に他ならずと知るべし」、先生の文章は万事こんな調子ですよといって面と向かって揶揄し、同席していた鳩山秀夫らの喝采を浴びた学生もいたという。この学生は三島由紀夫の父平岡梓である[7]

来歴編集

 
仁井田益太郎
  • 明治26年7月、帝国大学法科大学独法科卒業(首席)、東京地方裁判所詰司法官試補、法典調査委員会書記。
  • 明治27年3月、法典調査委員会起草委員補助(富井政章付き)[注 5][注 6]
  • 明治29年5月、京橋区裁判所判事任官。
  • 明治30年1月、東京区裁判所判事任官。
  • 明治30年6月、東京区裁判所判事免官、民事訴訟法研究のため欧州留学。
  • 明治33年11月、京都帝国大学法科大学教授、民事訴訟法講座担任。
  • 明治34年6月、法学博士。
  • 明治36年6月、法典調査会委員、法律取調委員会委員、臨時法制審議会委員。
  • 明治41年6月、東京帝国大学法科大学教授、民事訴訟法破産法講座担任。
  • 大正10年6月、弁護士登録。
  • 大正15年4月、東京第二弁護士会会長。
  • 昭和9年7月~昭和20年1月貴族院議員。

栄典編集

著書編集

  • 帝国民法正解』(松波仁一郎仁保亀松との合著、穂積陳重・富井政章・梅謙次郎校閲[注 7]
  • 『民法修正案理由書』(松波仁一郎、仁保亀松との共編・共著[注 8]
  • 『民事訴訟法要論 上中下巻』(有斐閣書房 1907-1913年)
  • 『民事訴訟法一班』(有斐閣書房 1919年)
  • 『民事訴訟法大綱』(有斐閣書房 初版1913年、改訂増補第2版1919年)
  • 『親族法相續法論』(有斐閣書房 初版1915年、訂正改版1916年)
  • 『民法総論第1冊』(有斐閣書房 1920年)

脚注編集

 
仁井田益太郎

注釈編集

  1. ^ 星野は、この発言を、ドイツ民法でなくフランス民法が日本民法の母法であることの論拠の一つとして引用している。星野英一『民法論集第一巻』89頁(有斐閣、1970年)。
  2. ^ 加藤雅信は、この発言を引用し、日本民法におけるドイツ法の包括的影響を否定するのは無理があるとして星野を批判する(同書では出典の明記が無いが、法律時報10巻7号24頁)。加藤雅信『民法総則』第2版28頁(有斐閣、2005年)。
  3. ^ これに対し、星野と同じく日本民法が少なくとも半分はフランス法の影響を受けていると主張する内田貴は、富井の留学先がフランスであったことを理由の一つに挙げている。内田貴『民法I総則・物権総論』第4版25頁(東京大学出版会、2008年)。星野も、富井はフランス註釈学派への反発から、起草に当たってもっぱら独法主義に立ったものと評価しており、星野と若干の差異がある。星野英一『民法論集第五巻』170-172頁(有斐閣、1986年)。
  4. ^ 梅・穂積も概ね同旨を説いているとの指摘がある。瀬川信久「梅・富井の民法解釈方法論と法思想」『北大法学論集』41巻5・6号402頁(北海道大学、1991年)、梅謙次郎述『民法総則(自第一章至第三章)』309頁(法政大学、1907年)、梅謙次郎「法律の解釈」太陽9巻2号56-62頁(博文館、1903年)、穂積陳重「獨逸民法論序」『穂積陳重遺文集第二冊』419頁。
  5. ^ 仁井田ほか・法時10巻7号30頁によると仁井田は当時裁判官であるが、星野は、「起草補助者である当時法科大学学生の仁井田益太郎」(民法論集第1巻85頁)、民法修正案理由書における代理の「あとの部分は起草委員の補助者(当時東大生)が……書いたものであるから……必ずしも正確なものでない」(星野英一『民法概論I』63頁(良書普及会、1970年)等と主張している。
  6. ^ 大学を卒業したばかりの人間が重要なポストに付くことは、現代からすると奇異にみえるが、明治最初期の東京帝国大学の学生は法学部全体でも僅か10名前後に過ぎず、国家の幹部候補生だったためである。潮見俊隆・利谷信義編『日本の法学者』法学セミナー増刊(日本評論社、1974年)100頁。
  7. ^ 表紙には起草三委員の校閲を経たものであることが明記されている。もっとも、仁井田自身は、「斯うだと思つた事を思ひ切つて書いた」もので、綿密な検討を経たものでもなく、「決して良い物ではない」と評価している。仁井田ほか・法律時報10巻7号27頁。「わが民法には……起草委員の手になる正式の立法理由書がない」、と主張するのは星野英一である(星野・研究1巻78頁、同旨、星野・概論63頁)。
  8. ^ 代理以降は補助委員の執筆であり、起草委員の校閲が入っていないため未定稿本とされ当初非公開とされた。仁井田ほか・法律時報10巻7号20頁。

出典編集

  1. ^ 岩田新『日本民法史 : 民法を通じて見たる明治大正思想史』(同文館、1928年)207頁
  2. ^ 穂積陳重「法窓夜話」97・98話。
  3. ^ 仁井田益太郎=穂積重遠=平野義太郎「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」『法律時報』10巻7号15頁。ただし、仁井田は民法典論争の当事者ではないことに注意。
  4. ^ 仁井田ほか・法律時報10巻7号23頁。
  5. ^ 仁井田ほか・法律時報10巻7号15頁。
  6. ^ 法律時報10巻7号24頁。ただし、仁井田は富井付きの補助者であることに注意。
  7. ^ 我妻栄「文章のスタイル」『ジュリスト』226号27頁)。なお、平岡は我妻の同窓。
  8. ^ 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。
  9. ^ 『官報』第6902号「叙任及辞令」1906年7月3日。
  10. ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
  11. ^ 『官報』第2442号「叙任及辞令」1920年9月21日。

関連項目編集

外部リンク編集