仁木他喜雄

日本の作曲家、編曲家

仁木 他喜雄(にき たきお、1901年明治34年)11月14日 - 1958年昭和33年)5月13日)は、昭和期の作曲家編曲家北海道出身。

仁木他喜雄
生誕 (1901-11-14) 1901年11月14日 北海道の旗北海道札幌郡
出身地 日本の旗 日本 北海道 滝川市
死没 (1958-05-13) 1958年5月13日(56歳没)
学歴 森音楽学校
ジャンル 歌謡曲、映画音楽
職業 作曲家、編曲家

経歴 編集

北海道札幌郡篠路兵村(現在の札幌市北区屯田・篠路付近)に生まれ、1歳の時に滝川村幌倉(現在の滝川市東滝川町付近)に移住し1914年まで過ごす。その後札幌の劇場を経て、横浜のバンド屋(鼓笛隊養成所の意味)「睦崎」に入門してドラムを学び、ハタノ・オーケストラ日本交響楽協会を経て、1926年(大正15年)の新交響楽団(のちのNHK交響楽団)創設時にティンパニ奏者として参加。1940年以降は、コロムビア専属として、レコーディングにおける多数の編曲と作曲で知られる。

1958年(昭和33年)5月13日死去。享年56。葬儀の際には、二葉あき子が、ヒット曲「別れても」を嗚咽しながら歌い、その早すぎる死を悼んだ。根室本線東滝川駅前東側に、仁木他喜雄顕彰歌碑(めんこい仔馬)がある。

エピソード 編集

越路吹雪宝塚歌劇団退団直後の実演、レコードなどのディレクター兼プロデューサーでもあった。

作品 編集

歌謡曲 編集

映画音楽 編集

外部リンク 編集