仇討流転』(あだうちるてん[1][2])は、1928年昭和3年)製作・公開、伊丹万作原作・脚本・監督による日本の長篇劇映画サイレント映画である[2][3][4]。伊丹万作の監督デビュー作として知られる[3][4][5]。オリジナルシナリオ完成時の原題は『草鞋』(わらじ)[5]

仇討流転
あだうちるてん
監督 伊丹万作
脚本 伊丹万作
原作 伊丹万作
出演者 片岡千恵蔵
伊藤みはる
市川小文治
撮影 石本秀雄
製作会社 片岡千恵蔵プロダクション
配給 日本の旗 菊水キネマ商会
公開 日本の旗 1928年11月25日
上映時間 約118分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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略歴・概要 編集

伊丹自身の回想によれば、1927年(昭和2年)10月、満27歳のころ、旧制・愛媛県松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)時代の先輩である伊藤大輔宅の食客となった際に、伊藤に言われて「しかたなく」書いたオリジナルシナリオが2本あり(『花火』、『伊達主水』)、その後同年11月、谷崎十郎主宰による谷崎十郎プロダクションが奈良に設立され、当時、伊丹とともに伊藤家の食客であった俳優の香川良介、脚本家の中川藤吉らとともに同プロダクションに移り、俳優として同社にいた1か月のうちに書いたのが、本作のオリジナルシナリオ『草鞋』であった[5]。同年11月30日付の伊丹の日記には、『草鞋』は自分で監督すると固く決めた決意が書かれているという[6]

1928年(昭和3年)4月、設立されたばかりの片岡千恵蔵プロダクション助監督脚本家として参加、このときに独立第1回作品のシナリオを1週間で書けといわれ、『天下太平記』を書き、これを監督して、映画監督としてデビューした稲垣浩の助監督につく[2][5]。伊丹もまた、同作が職業脚本家としてのデビューであったが、その後、『伊達主水』が『放浪三昧』の題で公開され、『源氏小僧』が公開された後に、『草鞋』を「周囲に無断で自ら監督し物議をかもした」という[2]。結局、映画『草鞋』は完成し、同年11月25日、『仇討流転』のタイトルで公開された[1][2][3][4][5]。監督デビュー時、伊丹は満28歳であった[2]

本作には、プロダクション主宰の片岡千恵蔵のほか、伊丹と同時に入社した香川良介[5]、同じく同プロダクションの設立に参加した武井龍三成松和一市川小文治歌舞伎映画プロダクション市川小文治、伊藤大輔の最初の妻である伊藤みはる[7]が出演している[2][3][4]。片岡千恵蔵は、喜多左近・右近の兄弟二役を演じ分けた[3]。同プロダクションは、当時まだ自社撮影所を所有しておらず、河合広始田中十三の主宰する「日本キネマ撮影所」(双ヶ丘撮影所)でセット撮影が行われた[8]

2013年(平成25年)1月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターも、マツダ映画社も、本作の上映用プリントを所蔵していない[9][10]。事実上、失われたフィルムであり、観ることが不可能である。本作の脚本については、1961年(昭和36年)11月15日に発行された『伊丹万作全集 第3巻』(筑摩書房)には収録されていない[11]

スタッフ・作品データ 編集

キャスト 編集

脚注 編集

  1. ^ a b 仇討流転jlogos.com, エア、2013年1月18日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 仇討流転KINENOTE、2013年1月18日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 仇討流転日本映画データベース、2013年1月18日閲覧。
  4. ^ a b c d e 仇討流転、 日本映画情報システム、文化庁、2013年1月18日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 私の活動写真傍観史伊丹万作青空文庫、2013年1月18日閲覧。
  6. ^ 「父と子」展、一部展示替えのお知らせ伊丹十三記念館、2012年1月9日付、2013年1月18日閲覧。
  7. ^ 伊藤みはるjlogos.com, エア、2013年1月18日閲覧。
  8. ^ 双ヶ丘撮影所立命館大学、2013年1月18日閲覧。
  9. ^ 所蔵映画フィルム検索システム東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月18日閲覧。
  10. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年1月18日閲覧。
  11. ^ 伊丹[1961], p.1.(目次)
  12. ^ 18fps, 8巻=約8,000フィートからの換算。

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集