今市の戦い
今市の戦い(いまいちのたたかい、慶応4年閏4月20日 - 5月6日(1868年6月10日 - 6月25日))は、戊辰戦争における戦いの1つ。日光街道と会津西街道(日光口)との結節点である今市宿の掌握をめぐる、新政府軍と旧幕府軍及び会津軍との戦い。
今市の戦い | |
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戦争:戊辰戦争 | |
年月日: (旧暦)慶応4年閏4月20日 - 5月6日 (新暦)1868年6月10日 - 6月25日 | |
場所:下野国今市(現在の日光市今市周辺) | |
結果:旧幕府軍及び会津軍の関東からの撤退(新政府による関東平定) | |
交戦勢力 | |
![]() (東山道先鋒総督府) |
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指導者・指揮官 | |
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戦力 | |
第一次今市の戦い600程度 第二次今市の戦い1,200程度(宇都宮からの援軍を含む) |
第一次今市の戦い1,500程度 第二次今市の戦い1,200程度 |
宇都宮城の戦いにおいて敗北した大鳥圭介率いる旧幕府歩兵は、会津藩領に入り補給及び山川大蔵(後の浩)率いる会津軍増援部隊を得た。彼らは閏4月20日及び5月6日に今市宿の占領を試みたが、板垣退助率いる新政府軍によって却って損害を蒙り、会津西街道を北上し小佐越(現在の日光市小佐越)周辺に陣地を築き防衛に入った。5月15日の上野戦争・5月22及び23日に渋沢成一郎指揮下の振武軍が敗北した飯能戦争(詳細は能仁寺参照)と並んで、関東地域が新政府の管制下に入る結果をもたらした。
背景編集
今市宿(現在の日光市今市)は江戸と日光を結ぶ日光街道、会津若松へ続く会津西街道、高崎へ続く日光例幣使街道、奥州街道の宿場町大田原宿へ続く日光北街道の集まる交通の結節点だった。
慶応4年4月23日(1868年5月15日)、宇都宮城の戦いで敗北した大鳥圭介率いる旧幕府歩兵は、初期の目標であった徳川家康の霊廟・日光山での新政府軍との決戦を意図し25日に日光へ到着したが、日光には留まらず今市から会津西街道に進路を取り閏4月5日、会津藩領の田島に到着した。これは一説には板垣退助の依頼を受けた台林寺住職厳亮による、東照宮を戦場にしないための説得があったとされ、これを顕彰する板垣の銅像も日光東照宮近くに存在する。しかし老中板倉勝静による同様の説得があったとする説、秋月登之助による助言があったという説、さらにその後の行動から、会津藩・仙台藩を含む反新政府目的の一斉軍事行動計画の一環とする意見もある。
田島にて土方歳三ら負傷兵を療養のため会津藩へ残し、補給及び山川率いる会津の援軍を得た旧幕府歩兵は、再び日光街道まで南下し関東地域における軍事行動に就くこととなった。
経過編集
第一次今市の戦い編集
閏4月20日、旧幕府軍及び会津軍は兵力を2つに分け日光街道の東西両方向から今市へ攻撃を始めた。この日は奥羽鎮撫総督府の世良修蔵が仙台藩に殺害され、白河城が仙台藩と会津藩によって陥落したのと同日だった。旧幕府側による今市への攻撃は東西両軍の連携が悪く、山川が率いた東側が疲弊損傷し撤退を始めた後で大鳥率いる西側の攻撃が始まり、結果として板垣率いる新政府軍は東西の旧幕府軍を各個撃破した。板垣は周囲の新政府側戦況の悪化を鑑み今市周辺に防御陣地を構築し、今市で旧幕府軍を迎え撃つ体制作りに着手した。
第二次今市の戦い編集
5月6日、旧幕府軍及び会津軍は今市の東側に兵力の大部分を集結し一斉攻撃を始めた。正午ごろまで旧幕府軍側の攻勢が続いたが、板垣は西側の守備隊を再編し旧幕府軍の南へ迂回し反撃を始めた。また宇都宮から急行してきた新政府軍が到着し、これも旧幕府軍へ攻撃を開始し旧幕府軍側は敗走した。旧幕府軍側の損害は大きく、以後攻勢を諦め会津西街道途中の小佐越に陣地を築き会津西街道の防衛に移行した。
その後編集
5月1日、白河口では伊地知正治率いる新政府軍が勝利し白河城を再び新政府の管理下に置いた。板垣は兵700を率い白河の新政府軍に合流し会津西街道での戦いは後続の佐賀藩兵に任せた。白河口では平潟から上陸した新政府軍との協同作戦が進行し、現在の福島県の中通り及び浜通りは新政府軍の支配下となった。一方、会津西街道では藤原の戦いで新政府軍が敗北し、山間の隘路という条件もあり会津西街道の戦線は停滞した。
影響編集
今市の戦いで新政府軍を率いた板垣は拠点防衛を的確に行い戦いを優勢に進めた。一方、旧幕府軍の大鳥と会津軍の山川は連携に問題があり、当初持っていた優勢な兵力を生かせず逆に敗北によって会津西街道を新政府軍の進撃路の1つに変えた。
関東内に軍事力を保持し新政府軍の東北地域への攻勢を困難にすることに及び、東北からの旧幕府・列藩同盟勢力の南下を容易にするという旧幕府軍側の戦略は、旧幕府軍・会津軍の損害によって達成不能に陥り、会津西街道を確保する防衛体制へ移行することになった。これによって新政府に兵力の余裕が生じ、新政府軍は戦力過少に直面していた白河口への兵力増員が可能となった。彰義隊・振武隊が敗北し更に兵力に余裕の出た新政府は、蒸気船を用いた上陸作戦を敢行し戦局を更に有利に進めた。
参考文献編集
- 『復古記』東京大学史料編纂所 1931年
- 『維新史』維新史料研究会 1939年-1941年
- 大山柏 『戊辰役戦史』(増訂版) 、時事通信社 1988年 ISBN 4-7887-8840-3
- 野口武彦『幕府歩兵隊 幕末を駆けぬけた兵士集団』中央公論新社〈中公新書〉、2002年11月。ISBN 4-12-101673-4。
- 保谷徹『戊辰戦争』吉川弘文館〈戦争の日本史18〉、2007年12月。ISBN 978-4-642-06328-9。