今村力三郎

今村力三郎

今村 力三郎(いまむら りきさぶろう、1866年6月14日慶応2年5月2日 ) - 1954年昭和29年)6月12日)は、日本の弁護士であり、元裁判官専修大学総長(第5代)。

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生涯編集

信濃国(現長野県下伊那郡上飯田村(現飯田市)に生まれる。旧姓は蜂谷であったが、今村家の養子となって今村姓を名のった。1884年に上京し、伴正臣大審院(現最高裁判所判事の玄関番をしながら、1886年専修学校法律科(現専修大学法学部)に入学する。1888年、在学中に代言人試験(現司法試験)に合格[1]して、専修学校を首席で卒業し[2]1889年から弁護士としての活動を開始した。1894年から1898年裁判官として任官した後、1954年に没するまで在野法曹として、民事および刑事の多岐にわたる事件を扱い活躍した。足尾鉱毒事件の弁護を担当したことから、田中正造を介して幸徳秋水と知り合い、後に大逆事件の弁護を引き受けることになる。

弁護士活動のかたわら、1920年から35年間にわたって、母校である専修大学の評議員や理事を務めた。1946年、当時今村は80歳を超えていたが、学生からの懇願もあり、修善寺の別荘での隠居生活を引き払い、総長に就任した。当時は戦後の学制改革として、旧制大学から新制大学への移行期であり、それに伴う設置基準により、施設や人員を整備することが要請されていたものの財政的に厳しく、専修大学は存亡の危機に立たされていたが、日本電気(NEC)から現在の生田キャンパスを入手して施設を拡充させ、同時に学部の拡張を図り、その危機を乗り切った。晩年は校舎の一隅に居を構えて生活し、大学の再建に奔走した[3]

略歴編集

  • 1866年慶応2年) - 信濃国(長野県)上飯田村に生まれる。
  • 1884年明治17年) - 上京して、伴正臣大審院判事の玄関番となる。
  • 1886年(明治19年)-専修学校(現在の専修大学)法律科に中途入学。
  • 1888年(明治21年)4月 - 代言人試験に合格。
    • 9月 - 専修大学の総代として卒業(第七回卒業生)。
  • 1920年大正9年) - 専修大学評議員。
  • 1926年(大正15年) - 専修大学理事。
  • 1946年昭和21年) - 専修大学総長。
  • 1949年(昭和24年) - 大学付設の今村法律研究室が開設。
  • 1954年(昭和29年) - 死去。墓所は多磨霊園にある。

エピソード編集

  • 昼は玄関番、夜は学生、帰宅後も判決書の浄書という多忙な生活を送りながら、努力の結果、代言人試験に合格した。
  • 代言人(弁護士)として、当時世間を驚かした著名な刑事事件の弁護を担当し、足尾鉱毒事件日比谷焼打事件大逆事件シーメンス事件森戸事件帝人事件五・一五事件血盟団事件神兵隊事件などの弁護を担当した[4][5]
  • 1949年、旧制大学から新制大学へ移行の際に、日本電気(NEC)から生田校舎の敷地を取得した。
  • 専修大学には、今村の業績を記念して、法学部今村法律研究室と法科大学院付属今村記念法律事務所が設置されている。

家族編集

脚注編集

外部リンク編集

今村法律研究所 今村力三郎小伝

学職
先代:
小泉嘉章
専修大学総長
第5代:1946年 - 1954年
次代:
川島正次郎