仙石 政寅(せんごく まさとら、元文14年(1739年) - 寛政11年10月5日1799年11月2日))は、江戸時代中期の旗本茶人水野忠祇の四男で、旗本仙石政啓の養子。母は筑紫従門の娘。通称は次左衞門、右門、右馬之助。号は仙樹庵徳玄。官途は従五位下、淡路守。石高2700石。正室は市川清熈の娘。子に政和(長男)、水野忠良(次男、水野忠郷養子)、筑紫孝門(四男、筑紫應門養子)。

安永5年(1776年)12月19日に小姓組番士に列する。安永7年(1778年)12月12日に家督を継ぎ、天明6年(1786年)9月9日に徒頭、天明8年(1788年)9月28日浦賀奉行に就任し、寛政9年(1797年)6月17日堺奉行となり、奉行所前の殿馬場に訴訟人のため腰掛茶屋を作らせ、公衆に便宜を図った。また、寛政10年(1798年)1月西本願寺掛所から出火し付近を併せて焼いたが、翌年2月には再建工事を行った。また、この年秋材木町浜及び宿院の茶屋をそれぞれ戎島、乳守等へ移転させた。また、政寅は茶人としても知られ仙樹庵德玄と号した。寛政11年(1799年)、61歳で没し、長男の政和が跡を継いだ。

参考文献 編集

  • 『堺市史 第七巻 第一編 人物誌』 第三章 爛熟期(大阪陣より明治維新迄)
  • 寛政重修諸家譜卷第三百六
  • 『日本人名大辞典』(講談社)