代王嘉(だいおう か、生没年不詳)は、中国戦国時代末期のの王(在位:前228年 - 前222年)。代はの亡命政権であるため、趙の最後の王ともされる。

代王嘉
王朝
在位期間 前228年 - 前222年
都城
姓・諱 趙嘉
悼襄王

生涯編集

嘉は趙の悼襄王の嫡長子として生まれ、太子に立てられた。だが、悼襄王は寵愛していた倡后の産んだ公子遷を後を継がせるため、太子嘉を廃嫡して、公子遷を太子に立てた。

前236年、悼襄王が死去すると、遷が即位して幽繆王となった[1]

前228年、の将軍王翦は趙の都邯鄲を陥落させた。幽繆王は捕虜となり房陵に流され、趙は事実上滅亡した。しかし、公子嘉は一族を連れて(現在の河北省蔚県南西部)に逃れた。そして、趙の大夫らに擁立され、亡命政権であるを建て、そこで王を名乗った(代王嘉)。

嘉は燕王喜と結んで秦に抵抗したが、前227年の太子荊軻を用いて秦王政(始皇帝)を暗殺しようとしたことから、秦軍が燕へと侵攻した[2][3]。燕・代連合軍は応戦したものの、易水で秦軍に敗れた[2]

前226年、燕の都が陥落し、燕王と太子丹は遼東に逃れた[2][3]。その後、嘉は燕王喜に丹を殺して、秦に和を請うよう勧めた[3]。燕王喜は丹を殺し、その首を秦に献じた[3]。秦王政はこれを受け入れ、進撃を中止した。しかし、この和睦は束の間に過ぎなかった。

前222年、王賁(王翦の子)率いる秦軍は遼東を攻め、燕王喜を捕虜とし、燕は滅亡した。王賁はさらに代の地にも攻め入り、嘉を捕虜とし、代も滅ぼした[2]。こうして、趙は名実ともに滅亡し、王統が絶えた。

脚注編集

  1. ^ 『史記』趙世家
  2. ^ a b c d 『史記』秦始皇本紀
  3. ^ a b c d 『史記』刺客列伝

参考文献編集

  • 史記』「趙世家」
  • 『史記』「秦始皇本紀」
  • 『史記』「刺客列伝」
先代:
幽繆王
代の王
紀元前228年 - 紀元前222年
次代:
滅亡