伊地知貞馨

伊地知 貞馨(いじち さだか、文政9年(1826年9月27日) - 明治20年(1887年4月15日)は明治時代官僚薩摩藩出身。初名:貞通。幼名:徳之助。別名:堀又十郎、堀仲左衛門、堀次郎、堀小太郎、伊地知壮之丞。

薩摩藩の少壮藩士による誠忠組の旗揚げに加わる。藩主の父として実権を握る島津久光は過激に陥りがちな誠忠組の取り込みを図り、側近として抜擢。堀も御小納戸役に任命された(この時、藩命により次郎と改名。文久2年(1862年)4月には再び藩命で小太郎と改名)。当初は大久保利通と並ぶ久光側近として、京都江戸などで他藩との交渉などに活躍した。文久元年(1861年)12月、幕府改革を目指した久光の出兵計画(後に文久の改革に繋がる)の準備のための時間稼ぎを行う必要があり、藩主・島津忠義参勤を遅らせるための奇策として、国元からの指示で江戸藩邸を自焼させた。この「火災被害」により、忠義は江戸出府の遅延を差し許されたが、翌文久2年(1862年)8月3日、幕府によって薩摩藩の自作自演であることが発覚(この際に藩命により伊地知壮之丞に改名)。主犯格とされた伊地知は10日、藩の船天祐丸により江戸から鹿児島に檻送され[1]、以後は薩摩藩の政治活動の第一線からは退いた。貨幣局出仕、琉球在番修史の編纂に携わる。慶応年間には、薩摩の英・蘭との貿易交渉に従事する。

明治維新後は内務省に出仕するが、長年の盟友だった内務卿・大久保利通に、琉球から賄賂を受取った事を咎められ免職となる。

まとめた主な史書に『沖縄志略』『沖縄志(琉球志)』がある。

脚注編集

  1. ^ 『再夢紀事』176-182p。