伊東 祐兵(いとう すけたけ/いとう すけたか)は、安土桃山時代武将大名日向伊東氏12代[4]伊東氏18代)当主。日向国飫肥藩初代藩主。『南家伊東氏藤原姓系図(通称「伊東氏大系図」)』や『伊東氏系図』[5]では、伊東氏中興の祖と書かれている。

 
伊東祐兵
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伊東祐兵
時代 安土桃山時代
生誕 永禄2年1月15日1559年2月22日
死没 慶長5年10月11日1600年11月16日
改名 虎熊丸(幼名)、祐兵
別名 六郎五郎、六郎三郎(通称)、祐隆[1]
戒名 報恩寺心関宗安
墓所 宮崎県日南市の報恩寺
官位 従五位下民部大輔豊後守
幕府 江戸幕府
主君 織田信長豊臣秀吉秀頼
日向飫肥藩
氏族 日向伊東氏
父母 伊東義祐河崎祐長の娘
養父伊東義益
兄弟 高城、麻生、歓虎丸、義益、尼公方丈東興庵、町上、伊東祐信室、照覚院、祐兵
正室伊東義益の娘・阿虎の方
伊東祐平[2]室、祐慶、於仙、滝川法直室、祐寿[3]
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生涯編集

永禄2年(1559年)、日向国の戦国大名伊東義祐の三男として誕生した。

永禄11年(1568年)から飫肥城に入城、島津氏と戦った。しかし天正5年(1577年)、福永祐友米良矩重らの謀反に呼応した島津氏の侵略によって父の義祐が佐土原を脱出すると、祐兵も父と共に同行する。米良山中から高千穂へ抜け、大友宗麟のもとを頼りに一時的に豊後国に退去した。

宗麟は義祐や孫・義賢のため、また日向国をキリスト教国にするという自身の大望のため天正6年(1578年)に日向国へ攻め入り島津軍と交戦したが、大友氏は島津氏に敗北を喫した(耳川の戦い)。大友家中の名立たる武将を失ったこの合戦の発端ともいえる伊東氏一族は大友領内で肩身が狭くなり、祐兵も義賢と祐勝を豊後に残して、父の義祐と正室の阿虎の方、及び河崎祐長・権助父子ら従者20余人と共に海を渡り、伊予国道後河野氏を頼り移住した。しかし、主従の生活は窮乏し河崎祐長は酒造りを営んで生活していたという。

その頃、かつて伊東家に世話になり、伊東氏が日向国を一時退去した後は祐長から伊東家再興の祈祷を度々頼まれていた山伏三峯という者が、巡行先の播磨姫路にて羽柴秀吉黄母衣衆の一人・伊東掃部助(伊東長実か。)と面識を得た。三峯が間を繋ぎ、遠祖を同じくする同族である尾張伊東氏を介し、祐兵の主従は織田氏に仕官することとなり、与力として羽柴秀吉の付属となった。

本能寺の変による織田信長の死後は、そのまま秀吉の家臣団に組み込まれた。天正10年(1582年)の山崎の戦いで活躍し、祐兵は恩賞として「くりから竜の槍」を拝領し、河内5百石を領地として宛てがわれた。天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州平定により島津氏は日向国から放逐された。この九州平定の際に伊東勢が九州平定軍の土地案内先導役を務めた功績により、旧領のうち清武曾井に2万8千石を与えられ、大名として復権した。翌16年(1588年)にはかつての本拠地である飫肥も取り戻し、3万6千石に加増された。その後、朝鮮出兵にも参陣した。慶長4年(1599年)、豊臣姓を下賜された[6]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、祐兵は西軍に与した。しかし、大坂の屋敷で重病の床に伏していたために祐兵は出陣せず、一方で密かに嫡男の祐慶を領国に派遣し軍備を整えた上で、黒田孝高を頼って徳川家康の東軍に通じた。領国では家老の稲津重政らが陣頭指揮を執り、伊東氏は東軍として西軍の高橋元種の属城である宮崎城を攻撃し、これを占領した。実はこの時点で高橋氏も東軍に寝返っていたため、戦後に宮崎城は返還させられてしまったが、伊東氏の東軍としての参加と貢献を認められ、戦後に家康から所領を安堵された。

同年中、祐兵は大坂で病死した[1]


系譜編集

脚注・出典編集

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  1. ^ a b 阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P107
  2. ^ 伊東マンショの弟。
  3. ^ 伊東左門家。孫の伊東祐永が婿養子として本家を相続した。
  4. ^ 資料によっては早世した兄・義益や、実権の無かった甥・義賢の家督継承を省略し「11代」とされることもある。
  5. ^ 鹿児島県史料 旧記雑緑拾遺 伊地知季安著作集」所収
  6. ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」1996年。

参考文献編集

  • 『戦国人名事典コンパクト版』阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9