伊藤敦規
伊藤 敦規(いとう あつのり、1963年5月29日 - )は、愛知県知多市[1]出身の元プロ野球選手(投手・右投右打)・コーチ。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県知多市[1] |
生年月日 | 1963年5月29日(61歳) |
身長 体重 |
178 cm 74 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1987年 ドラフト1位 |
初出場 | 1988年4月14日[1] |
最終出場 | 2002年6月22日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
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この表について
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オリンピック | ||
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男子 野球 | ||
金 | 1984 ロサンゼルス | 野球 |
1987年度のドラフト会議で阪急ブレーブス(後のオリックス・ブレーブス→オリックス・ブルーウェーブ)から1位指名を受けて入団し、1995年以降は横浜ベイスターズでプレーしたが、故障や成績不振から2年で解雇された[2]。しかし1997年以降はテスト入団した阪神タイガースで復活し、当時30歳代後半ながら同年 - 2000年代初めにかけて阪神で中継ぎ・抑えの主戦格として活躍し[2]、NPB通算483試合に登板した[3]。ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。
経歴
編集プロ入り前
編集知多市立八幡中学校出身で、中学の後輩には山﨑武司(元中日・楽天など)、浅尾拓也(元中日)・小山雄輝(元巨人)がいる[4]。実家が建設会社(伊藤建設)を営んでいることから、家業を継ぐことも視野に、中京高校から福井工業大学へ進学した。
高校2年で外野手から投手に転向[1][5]。高校時代は控え投手だったが[6]、当時、阪急ブレーブスのエースとして活躍していた山田久志[注 1]を参考にアンダースローに転向した[7](投球フォームについては#選手としての特徴も参照)。大学に進学するとすぐにエースになり[6]、硬式野球部のエースとして北陸大学リーグで活躍、リーグ通算20試合に登板で12勝を記録、4年秋の金沢経済大学戦でノーヒットノーランを達成。3年時の1984年に出場した全日本大学野球選手権大会では、チームを初めて準決勝進出(ベスト4)に導いた[1]が、準決勝で法政大学に敗れた。第13回日米大学野球選手権大会やロサンゼルスオリンピック(五輪)の野球競技に日本代表として出場し[6]、五輪では2勝を挙げてチームの優勝(金メダル獲得)に貢献した[1]。
大学卒業後は熊谷組に入社[1]。1986年・1987年と2年連続で都市対抗に出場し[6]、1987年の社会人野球日本選手権大会では、チームの準優勝進出に貢献。自身も2勝を挙げたことから、大会の優秀選手に選ばれた。
1987年には日本代表として、翌1988年にソウルで開催される夏季オリンピック予選にも出場した。しかし、同年11月18日の予選終了後のNPBドラフト会議で、山田が所属していた阪急と日本ハムファイターズの2球団から1巡目で指名を受け、抽選により阪急が独占交渉権を獲得し[注 2][8]入団[2]。背番号は16で、契約金は6,000万円・年俸は600万円(ともに推定額)[6]。阪急は翌1988年のドラフト会議の前に球団の経営権をオリエント・リース(後のオリックス)へ譲渡したため、ドラフト1位で阪急へ入団した最後の選手にも当たる。
阪急・オリックス時代
編集阪急・オリックス時代は技巧派投手として、主に先発で活躍した。
1988年には尊敬する山田から直接シンカーの握りを教わり[7]、4月14日の対日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)にて2番手投手として初登板[1]。7月10日の対ロッテオリオンズ戦(秋田球場)でプロ初セーブを挙げた[9]。また8月28日にはウエスタン・リーグの対阪神タイガース戦でノーヒットノーラン[注 3]を達成[1]。同年は一軍公式戦で20試合に登板し、1勝4敗1セーブ・防御率5.69の成績を残し、オフには年俸が780万円になった[10]。
1989年は8月26日の対ロッテ戦で荘勝雄と投げ合い、プロ入り初完投勝利を記録[11]。同年は一軍公式戦で24試合に登板して5勝1敗・防御率3.44の成績を残し、翌1990年シーズンの年俸は1,100万円となった[11]。
1990年から一軍の先発ローテーションに加わり[1]、初の規定投球回到達はならなかったが、一軍公式戦31試合に登板して116回2/3[注 4]を投げ、7勝7敗1セーブ・防御率4.71の成績を残した[12]。
1991年は一軍公式戦29試合登板・6勝12敗1セーブ・防御率3.08の成績で[13]、チームで規定投球回に到達した投手4人[注 5]としては唯一負け越した[注 6]が、防御率はリーグ7位(チーム最高)だった[13]。
1992年には、7月8日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)で新井宏昌に一軍公式戦通算2000本安打(三塁打)を許した[15]が、オールスターゲームにパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の選手として初出場[16](監督推薦)。同シーズンは前年から2年連続で規定投球回に到達し[17]、26試合登板(投球回数191回2/3)・8勝8敗・防御率3.80[注 7]と自己最高の成績を挙げ[16]、特に3連覇を達成した西武ライオンズ戦では5勝2敗と好成績を残した[16][19]。同年オフには契約交渉で球団から最初に提示された条件(推定年俸3,600万円)を「希望額とかけ離れている」として保留し、代理人交渉制度の活用も検討していた[20]が、結局は推定年俸4,200万円(前年比1,200万円増)で更改した[19]。更改の直後には「『頑張れば来年(1993年)はドンと(年俸を)上げてもらえる』と(球団幹部から)約束されたので、2桁勝利を達成したい」と意気込んでいた[19]が、1993年はシーズン途中で故障に見舞われ、9試合登板(投球回数54回)で3勝4敗の成績に終わる[17]。「同年以降は後遺症のためか、ボールに力はあるのに外角で勝負しすぎる」と指摘されていた[21]。
1994年は故障からの復活を誓ったが[7]、同年は9試合の登板で0勝1敗の成績に終わり[22]、チームが左腕投手の補強を狙っていたこともあって、1994年シーズン終了後にはトレード要員となっていた[23]。阪急・オリックス時代(1994年まで)には通算成績で30勝37敗3セーブと負け越していた[22]ものの、当時「黄金時代」と呼ばれた西武を相手に7勝をマーク。さらに、通算5完封勝利のうち4完封を対西武戦(残り1完封は福岡ダイエーホークス戦)で挙げたことから、一時は「西武キラー」という異名が付いていた。
横浜時代
編集1994年11月11日、水尾嘉孝・渡部高史・堀江賢治との交換トレードにより、飯塚富司と共に横浜ベイスターズへ移籍することが発表された[24]。推定年俸は3,900万円で、移籍前と同じく背番号16を着用[22]。交換相手の3人のうち、投手2人(水尾・渡部)はいずれも左投手[24]で、オリックスは左腕を補強ポイントとしていた[25]。当時の横浜は先発投手が不足しており[24]、右の先発要員を求めていた[25]。伊藤は先発にも救援にも対応できること[22]から、横浜は当初オリックスに対し、伊藤と水尾の1対1のトレードを申し入れていた[24]。しかしオリックス側が1対1のトレードに難色を示したため、横浜は左投手の渡部・内野手の堀江をトレード要員に追加し、オリックス側も飯塚をトレード要員に加えたため、2対3の交換トレードで決着した[24]。
1995年は5月7日の対ヤクルトスワローズ戦で移籍後初勝利を挙げたが[26]、移籍直後に左膝を故障[27][28]。同年は19試合登板(先発6試合)・1勝2敗、防御率6.50の成績に終わり、シーズン終了後には推定年俸3,400万円(前年比500万円減)で契約を更改した[26]。
1996年には左膝の状態は投球に支障を来さないまでに回復していた[27]が、一軍公式戦には4試合に登板しただけで未勝利(防御率4.76)に終わり[注 8][29]、シーズン終了後(10月17日)には飯塚とともに球団から戦力外通告を受けた[30]。帰郷して家業を継ぐことを考えたが[27][2]、実父から「『まだやれる』と思うなら悔いを残して辞めるのは良くない」と諭されたことをきっかけ[27]に、幼少期から応援していた阪神タイガースの秋季練習で入団テストに臨んだ[31]。通常の入団テストよりかなり遅い時期(秋季練習の終盤)での挑戦だったため、球団本部長からは「合格は99%無理だろう」と厳しい評価を受けていたが、合格を勝ち取った[2]。
阪神時代
編集1996年12月5日に、片瀬清利(前広島東洋カープ)・酒井光次郎(前日本ハムファイターズ)・中村良二・畑山俊二(いずれも前近鉄)と共に、阪神への入団が発表された[31]。推定年俸は1,700万円[注 9][29][32]で、背番号は阪急 - 横浜時代から一転して47を着用した。
1997年には、「(横浜時代から痛めている左)膝が壊れてもいいので、他のどの投手にも負けたくない」との決意を胸に、公式戦の開幕直後から一軍の救援陣に定着[27]。プロ入り初のリリーフ専任となったが、60試合の登板で8セーブ(いずれも自己最多)と8勝(阪急時代の1992年に並ぶ自己最多勝利)を挙げた[27]ほか、防御率2.67という好成績を残した[34]。同年は特に広島東洋カープ戦に強く(対広島戦の防御率は0.87)、緒方孝市(11打数1被安打/被打率.091)・江藤智(9打数1被安打/被打率.111)を抑え込んでいた[21]。同シーズン終了後には推定年俸4,000万円(2,300万円増)で契約更改した[34]。
1998年は葛西稔・弓長起浩・吉田豊彦とともに貴重な中継ぎ投手として起用され[35]、一軍公式戦50試合の登板で2勝3敗・防御率2.87を記録し、シーズン終了後には年俸4,900万円(推定)で契約更改した[36]。同年10月8日に本拠地・阪神甲子園球場で開催された古巣・横浜(当時、セ・リーグ優勝へのマジックナンバーを1としていた)との最終戦(27回戦)では、3対2(1点リード)で迎えた8回表に弓長起浩に代わる3番手投手として登板したが、二死満塁の場面で8番打者の進藤達哉に逆転決勝打となる2点適時打を打たれ、目の前で古巣の38年ぶり(前身球団である大洋ホエールズが1960年に達成して以来)となるセ・リーグ優勝を達成されることとなった(敗戦投手は弓長)[37]。しかし同年は横浜の谷繁元信(8打数)・波留敏夫(4打数)をいずれも無安打に抑えたほか、中日ドラゴンズ戦では防御率1.35と好成績を残している[38]。一方で前年好成績を挙げた広島戦の防御率は4.09と悪く、ヤクルトスワローズの古田敦也・池山隆寛・真中満を苦手としていた[注 10][38]。
野村克也が一軍の監督を務めた1999年は投手陣最年長ながら[39]、自身と同じくサイドスローで復活を遂げた左投手の遠山奬志や、アンダースローの軟投派右投手・葛西稔などと共に、多彩で強力な救援陣を構成。同年は59試合[注 11]に登板し、6勝1敗・防御率3.21の成績を残した[40]が、9月12日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦(阪神甲子園球場)の練習中に外野手の送球を右手に受けて親指骨折・脱臼の怪我を負った[41]。同年は優勝した中日相手に防御率2.00、広島戦では0.00と好成績を残した一方、巨人戦では防御率4.32、横浜戦では5.28と打ち込まれたほか、左打者との対戦を課題としていた[42]。同年オフにはフリーエージェント (FA) の権利を行使[43]した上で阪神に残留し[39]、推定年俸6,500万円[注 12]で契約更改した[40]。
阪急時代の同僚だった星野伸之がFA権を行使してオリックスから移籍した2000年には、セ・パ両リーグで最多となる71試合に登板し、67回1/3を投げて3勝1敗・防御率1.86と好成績を残した[44]。同年の伊藤は37歳[40]であったことから、NPBの一軍公式戦で1シーズンに70試合以上登板した投手の最年長記録も樹立。試合終了後のヒーローインタビューで、鶴の恩返しにちなんで「羽根を抜いては投げている」と語ったこともあった。また同年には野村監督から信頼を受け、金一封を贈られている[45]。もっとも、この登板数をめぐっては、途中まで稲尾和久のシーズン登板記録を更新しそうなペースだったが、スポーツライターの宇佐美徹也が「稲尾は内容が違う。ワンポイントで最多登板なんて、やめてくれないか」と野村に要求し[46][47]、野村はそれを受け容れ登板を減らした経緯がある[46]。実際に、103試合消化時点で58試合登板(56%の試合)だった伊藤のペースは、残り33試合で13登板(同39%)に激減し、最終的に71試合登板に留まった。
2001年(推定年俸8,000万円)シーズンも[44]、一軍公式戦52試合(遠山とともにチーム最多登板)に登板して6勝2敗・防御率1.79の成績を残した[48]。また同年、NPB史上7人目の一軍公式戦5年連続50試合登板も達成した。しかし、野村に代わって星野仙一が監督に就任した2002年には、吉野誠・金沢健人などの若手投手が救援陣で台頭したこと[49]から、一軍公式戦での登板機会が大幅に減少。かねてから抱えていた腰痛の悪化に加えて、シーズン中に右肘を痛めたため、通算の防御率が5点台に達するなど、投球内容が移籍後で最も悪かった。星野監督による若返り・大幅補強策の一環で、9月26日に遠山・弓長起浩・成本年秀・西川慎一・川俣ヒロアキとともに球団から戦力外通告を受け[49]、現役を引退。10月14日の対中日戦(阪神甲子園球場・同シーズン最終戦)で星野・伊藤・遠山・葛西の引退セレモニーが行われた[50]。
現役引退後
編集「伊藤建設」の営業主任を務めながら、2003年から2004年まで毎日放送の野球解説者・サンケイスポーツの野球評論家として活動していたほか、プロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズにも参加していた[51]。
2005年から、三軍コーチとして阪神に復帰。
2006年から2008年までは二軍のトレーニングコーチ(2006年のみ投手コーチと兼任)。
2009年から2019年までは一軍のトレーニングコーチを務めた。(三軍担当時代を含めて)トレーニングコーチ歴は15年におよんだが、日本のプロ野球 (NPB) ではチーフトレーナーがトレーニングコーチの役割を兼ねる傾向が主流になったことを受けて、球団では2020年シーズンからトレーニングコーチ制度を廃止することを検討[52]。2019年10月15日にはその一環として、伊藤のコーチ退任と退団を発表した[52]。
2020年からは、関メディベースボール学院の中等部で投手コーチとトレーニングコーチを務めている[3]。
選手としての特徴
編集投球フォームについてはアンダースローとする文献[注 13][38]、サイドスローとする文献が混在している[注 14][39]。江川卓は1998年・1999年の著書『スカウティングレポート』にてスピード(球速)・コントロール(制球力)・テクニック(技術)の3点について各球団の主力選手を5段階評価しているが、伊藤については「スピードは3。コントロール・テクニックはいずれも4」と評価している[21][38]。
プロ入り当時は直球・シュートが武器で[6]、阪神時代(1999年)は右打者の外角へのスライダーを得意な球としていたほか、ストレート(速球)、カーブ、シュート、シンカーも持ち球としていた[39]。
阪神時代はリリーフで主戦格として活躍していたが[2]、江川 (1998) は「アンダースロー特有の右打者の外角に曲がるカーブで逃げようとする」という弱点を指摘した一方[42]、「シンカーが力強く落ちるので、もっと強気に内角を突けば2ケタ勝てる力はある」「タイプ的にはむしろ先発(向き)[注 15]。中5日で6イニング、100球くらいなら、十分な働きをするだろう」と評していた[21]。また、「川尻(哲郎)が台頭するまで、阪神のアンダースロー(投手)の中では一番自分の力を理解していた」とも評している[38]。
田尾安志は『プロ野球ニュース』(フジテレビ)編集の選手名鑑で「コントロールよりも球のキレで勝負するピッチャー」[55]「すぐに肩が仕上がるため、連投OKの貴重な戦力。負け試合の登板よりも勝ちゲームのほうが内容のあるピッチングをする」と評している[39]。
詳細情報
編集年度別投手成績
編集年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988 | 阪急 オリックス |
20 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 1 | -- | .200 | 224 | 49.0 | 58 | 8 | 16 | 0 | 5 | 28 | 0 | 0 | 34 | 31 | 5.69 | 1.51 |
1989 | 24 | 4 | 1 | 0 | 0 | 5 | 1 | 0 | -- | .833 | 234 | 55.0 | 57 | 6 | 20 | 1 | 3 | 30 | 0 | 0 | 22 | 21 | 3.44 | 1.40 | |
1990 | 31 | 14 | 4 | 0 | 0 | 7 | 7 | 1 | -- | .500 | 521 | 116.2 | 127 | 12 | 39 | 1 | 9 | 50 | 2 | 0 | 67 | 61 | 4.71 | 1.42 | |
1991 | 29 | 18 | 8 | 3 | 1 | 6 | 12 | 1 | -- | .333 | 647 | 158.0 | 137 | 15 | 42 | 4 | 7 | 100 | 2 | 1 | 59 | 54 | 3.08 | 1.13 | |
1992 | 26 | 25 | 10 | 2 | 0 | 8 | 8 | 0 | -- | .500 | 808 | 191.2 | 192 | 19 | 52 | 1 | 7 | 93 | 1 | 2 | 84 | 81 | 3.80 | 1.27 | |
1993 | 9 | 9 | 1 | 0 | 0 | 3 | 4 | 0 | -- | .429 | 242 | 54.0 | 63 | 4 | 22 | 0 | 0 | 25 | 0 | 0 | 31 | 31 | 5.17 | 1.57 | |
1994 | 9 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 75 | 15.1 | 21 | 4 | 9 | 1 | 1 | 10 | 0 | 0 | 13 | 13 | 7.63 | 1.96 | |
1995 | 横浜 | 19 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 214 | 45.2 | 56 | 3 | 22 | 1 | 6 | 31 | 1 | 2 | 34 | 33 | 6.50 | 1.71 |
1996 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 28 | 5.2 | 8 | 2 | 5 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 4 | 3 | 4.76 | 2.29 | |
1997 | 阪神 | 60 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 5 | 8 | -- | .615 | 308 | 77.2 | 50 | 5 | 32 | 7 | 3 | 51 | 2 | 2 | 24 | 23 | 2.67 | 1.06 |
1998 | 50 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | -- | .400 | 226 | 53.1 | 52 | 2 | 18 | 7 | 2 | 40 | 2 | 0 | 18 | 17 | 2.87 | 1.31 | |
1999 | 59 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 1 | 0 | -- | .857 | 268 | 67.1 | 66 | 3 | 14 | 2 | 2 | 45 | 0 | 2 | 30 | 24 | 3.21 | 1.19 | |
2000 | 71 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | -- | .750 | 287 | 67.2 | 62 | 1 | 23 | 6 | 7 | 35 | 1 | 0 | 14 | 14 | 1.86 | 1.26 | |
2001 | 52 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 2 | 0 | -- | .750 | 190 | 45.1 | 34 | 2 | 19 | 3 | 5 | 24 | 0 | 0 | 12 | 9 | 1.79 | 1.17 | |
2002 | 20 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 97 | 22.2 | 18 | 5 | 9 | 3 | 2 | 13 | 0 | 0 | 14 | 13 | 5.16 | 1.19 | |
NPB:15年 | 483 | 84 | 24 | 5 | 1 | 56 | 51 | 11 | -- | .523 | 4369 | 1025.0 | 1001 | 91 | 342 | 37 | 59 | 579 | 11 | 9 | 460 | 428 | 3.76 | 1.31 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更
表彰
編集- JA全農Go・Go賞 (救援賞:2000年7月)
記録
編集- 初記録
- 初登板:1988年4月15日、対日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)、4回裏から救援登板、4回無失点
- 初勝利:1988年6月18日、対南海ホークス戦(阪急西宮球場)、8回表から救援登板、2回無失点
- 初セーブ:1988年7月10日、対ロッテオリオンズ戦(秋田市八橋運動公園硬式野球場)、10回から救援登板・完了、1回無失点
- 初完投:1989年8月26日、対ロッテオリオンズ戦(札幌市円山球場)、7被安打3奪三振4与四死球
- 初完封勝利:1991年7月2日、対西武ライオンズ戦(西武球場)、2被安打7奪三振1与四死球
- 節目の記録
- 1000投球回:2001年9月18日、対読売ジャイアンツ25回戦(東京ドーム)、5回裏に達成
- その他の記録
背番号
編集- 16 (1988年 - 1996年)
- 47 (1997年 - 2002年)
- 74 (2005年 - 2010年)
- 91 (2011年 - 2019年)
登場曲
編集代表歴
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 後にルーキーイヤーのみチームメイトとなった[7]。
- ^ 抽選に漏れた日本ハムは再指名を経て武田一浩(明治大学硬式野球部)を獲得した[8]。
- ^ 死球1個だけの準完全試合だった[10]。なお、同年の二軍戦での成績は2試合登板で2勝0敗0セーブ・防御率0.00である[10]。
- ^ 投球回数が100回を超えたシーズンは同年が初[12]。
- ^ 伊藤(防御率3.08/パ・リーグ投手成績は19人中7位)以外に山沖之彦(防御率3.30/投手成績9位)、星野伸之(防御率3.53/投手成績10位)、長谷川滋利(防御率3.55/投手成績12位)[14]。なお、伊藤は同年に初めて規定投球回に到達した。
- ^ 山沖は9勝7敗、星野は16勝10敗1セーブ、長谷川は12勝9敗1セーブ[14]。
- ^ パ・リーグ投手成績14位(規定投球回到達者数は21人)[18]。
- ^ 二軍(イースタン・リーグ)での成績は31試合登板・3勝5敗5セーブ・防御率3.80[29]。
- ^ 1997年版の『ホームラン』(日本スポーツ出版社)および日刊スポーツ出版社の選手名鑑(1997年版)では(1997年の年俸は)1,700万円とされているが[29][32]、日刊スポーツ出版社 (1998) では1,500万円とされている[33]。
- ^ 対戦成績はそれぞれ、古田とは5打数2被安打(被打率.400)、池山とは7打数4被安打(被打率.571)、真中とは6打数4被安打(被打率.667)だった[38]。
- ^ 遠山に次ぐチーム2番目の登板数[40]。
- ^ 日刊スポーツ出版社 (2000) では(2000年シーズンの年俸は)5,200万円とされている[43]。
- ^ 江川 (1999) は「アンダースロー投手」と述べている[38]。
- ^ 横浜時代の選手別応援歌「伊藤敦規のテーマ」(ポニーキャニオンから発売された1995年版・1996年版の選手別応援歌CDアルバムに収録)では「サイドスロー」と歌われている[53]。また、フジテレビ『プロ野球ニュース』監修の2000年版選手名鑑(発行:ザ・マサダ)では「サイドスロー・右投げ」として掲載されている[39]。
- ^ 伊藤本人も1998年ごろには先発を志願していた[54]。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i j 森岡浩『プロ野球人名事典 2003』(第1刷発行)日外アソシエーツ、2003年4月25日、52頁。ISBN 978-4816917714 。
- ^ a b c d e f 後藤正治「【2001年7月6日】 ■<闘いの風景> 阪神投手 伊藤 敦規 解雇・テスト入団、今も磨く投球術(7月6日)」『日経ネット関西版』日本経済新聞大阪本社、2001年7月6日。オリジナルの2002年3月14日時点におけるアーカイブ。
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参考文献
編集- 「'92プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第16巻第4号(通算:第162号 / 1992年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、1992年3月31日。
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- フジテレビ『プロ野球ニュース』『プロ野球ニュース イヤーブック 選手名鑑 '99』(第1刷発行)ザ・マサダ、1999年3月5日。ISBN 978-4915977817。
関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 伊藤敦規 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)