メインメニューを開く

伊藤 整(いとう せい、1905年明治38年)1月16日 - 1969年昭和44年)11月15日)は、日本小説家詩人文芸評論家翻訳家。本名は伊藤 整(いとう ひとし)。抒情派詩人として出発したが、その後詩作を離れて小説評論に重心を移し、ジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。戦後は旺盛な著作活動に加え、ベストセラーや裁判の影響もあり、もっとも著名な評論家の一人となった。私小説的文学の理論化をめざすとともに自身も創作を行い、評論では『小説の方法』「近代日本人の発想の諸形式」「近代日本における『愛』の虚偽」『日本文壇史』などがあり、『氾濫』『変容』『発掘』は、夏目漱石の衣鉢を継ぐ近代小説三部作である。

伊藤 整
(いとう せい)
Ito Sei.JPG
1954年
誕生 伊藤 整(いとう ひとし)
1905年1月16日
日本の旗 日本北海道松前郡炭焼沢村
(現:松前町
死没 (1969-11-15) 1969年11月15日(64歳没)
日本の旗 日本東京都豊島区上池袋
職業 小説家文芸評論家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京商科大学(現・一橋大学)中退
活動期間 1926年 - 1969年
ジャンル 小説文芸評論翻訳
文学活動 無頼派新心理主義
チャタレー事件
代表作 『得能五郎の生活と意見』(1941年)
チャタレイ夫人の恋人』(1950年、翻訳)
『氾濫』(1958年)
『変容』(1968年)
『日本文壇史』(1953年 - 1969年、評論)
主な受賞歴 菊池寛賞(1963年)
日本芸術院賞(1967年)
勲三等瑞宝章(1969年)
日本文学大賞(1970年)
デビュー作 『雪明りの路』(1926年)
子供 伊藤滋長男
伊藤礼二男
Portal.svg ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

社団法人日本文藝家協会理事東京工業大学教授、社団法人日本ペンクラブ副会長、財団法人日本近代文学館理事長などを歴任した。日本芸術院会員。位階正五位勲等勲三等

目次

生涯編集

詩人としての出発編集

北海道松前郡炭焼沢村(現松前町)で小学校教員の父伊藤昌整と母タマ(旧姓鳴海)の間に、姉一人と10人の弟妹の12人兄弟の長男として生まれた。父は広島県高田郡粟谷村(現三次市)出身で、教導団出身の陸軍少尉だったが、日清戦争出征後、海軍の水路部測量員(灯台看守兵)に志願して北海道に渡った[1]。まもなく辞職して白神尋常高等小学校の教員となり、整が生まれた年に父は日露戦争出征で203高地で重傷を受けて帰国し、旭川の官舎に移る。1909年に父は塩谷村(現小樽市)村役場書記となり、塩谷村へ移る。

旧制小樽中学(北海道小樽潮陵高等学校の前身)を経て小樽高等商業学校小樽商科大学の前身)に学ぶ。中学3年の時に、2年先輩の北見恂吉の影響で詩に関心を持ち[2]、級友と同人誌『踏絵』を発行。小樽高商在学中の上級生に小林多喜二高濱年尾がおり、一緒にフランス語劇に出演したこともある。卒業後、旧制小樽市立中学の英語教師に就任。1923年に友人川崎昇と同人誌『青空』発行。1926年に百田宗治主宰の『椎の木』に手紙を出して同人となり、自費出版した抒情詩詩集『雪明りの路』で百田宗治、三好達治に高く評価された。小樽で教員を続けながら、1928年に河原直一郎、川崎昇と同人誌『信天翁』刊行。宿直室に泊まり込んで下宿代を浮かせたり、夜間学校の教師の副職をするなどして、1300円の貯金を蓄え、2年後に教師を退職し上京し、北川冬彦、仲町貞子らと同居。

小説と評論編集

1927年旧制東京商科大学一橋大学の前身)本科入学内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学ぶ。また北川冬彦の紹介で入った下宿屋にいた梶井基次郎三好達治瀬沼茂樹らと知り合い親交を結び、瀬沼茂樹の主催していた『一橋文芸』に短編小説を寄稿している[3]。また河原、川崎と批評誌『文芸レビュー』刊行、処女小説「飛躍の型」を同誌に発表、続いて「鸚鵡」「パルナス座」「繭」などを発表。1930年には小説「送還」「感情細胞の断面」を川端康成に推奨された他、評論「文学領域の移動」「ジェイムス・ジョイスのメトオド『意識の流れ』に就いて」などを『文芸レビュー』『詩・現実』『新科学的』各誌に発表。また小川貞子と結婚、『科学画報』に掲載した小説「潜在意識の注意」で初めて原稿料を手にし、ジョイス『ユリシーズ』の翻訳を永松定辻野久憲と『詩・現実』に連載。

1931年に20世紀文学の翻訳に力点を置いた『新文学研究』を編集し金星堂から発行、東京商科大を退学し、『文芸レビュー』『風車』の同人と『新作家』を創刊。1932年に処女評論集『新心理主義文学』で、ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフらの影響による「新心理主義」を提言し、川端康成横光利一など当時の文壇にも影響を与え、自身も実験作『生物祭』『イカルス失墜』などを執筆。これらの作品は批判にも晒されたが、吉本隆明は現代文学体のの代表作として横光利一「機械」と並ぶものと評している[4]

1935年から1944年まで日本大学芸術科講師。1935年にD・H・ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を翻訳して刊行。また書下し長編小説『青春』(1938)、『霧氷』『典子の生き方』(1939)、戦時下において私小説の手法を逆用して自己韜晦によって社会を風刺する[5]『得能五郎の生活と意見』(1940)などを発表。1944年から1945年新潮社文化企画部長、1944年旧制光星中学校(現札幌光星高等学校)英語科教師。1945年に北海道の妻の実家に疎開、帝国産金株式会社落部ベニヤ工場勤務。戦後1946年に北海道帝国大学予科講師となるが、7月に上京、南多摩郡日野町に土地を買って山小屋風の家を建てて住み、「鳴海仙吉の朝」などを発表。1948年に鳴海仙吉ものを集めて長編『鳴海仙吉』として八雲書店に原稿を渡したが、印刷屋により差し押さえられて出版不能となり、1950年に細川書店より刊行、その自虐と風刺により新戯作派の作家ともみなされた[6]

伊藤整ブーム編集

1948年日本文芸家協会理事、1949年から1950年早稲田大学第一文学部講師、1949年東京工業大学専任講師(英語)。1950年には『チャタレイ夫人の恋人』の完訳版を小山書店から刊行し、上下巻で20万部の売れ行きとなったが、わいせつ文書として押収され、小山久二郎とともに起訴された。この裁判の一審と平行して発表されたエッセイ『伊藤整氏の生活と意見』や、チャタレイ裁判のノンフィクション『裁判』も話題となり、1953年に『婦人公論』に連載したローレンスの思想などを紹介した戯文エッセイを、翌年『女性に関する十二章』として一冊に纏めたところベストセラーとなり、同名の映画(市川崑監督)に本人もナレーション・端役で出演、「○○に関する十二章」という書物の出版が相次ぐなど「十二章ブーム」を巻き起こし、また新書版ブームの口火ともなった[7]。この頃から原稿や講演の注文が殺到し、長編小説『火の鳥』も好評で、『読売新聞』年末の「1953ベストスリー」の記事では、評者10人のうち9人に選ばれている。1954年のベストセラーのうち、1位『女性に関する十二章』、3位『火の鳥』、5位『文学入門』を占め、評論『文学と人間』[8]などベストセラーとなり[9]、合わせて年間70万部を売り上げたという[10]。1953年の文壇高額所得番付でも8位となっている。

1956年には『文学界』新人賞石原慎太郎太陽の季節』を強く推して議論を巻き起こした[11]。1958年東京工業大学教授昇格、パリで行われた国際ペンクラブ執行委員会で発表、その後タシュケントアジア・アフリカ会議ロンドンのイギリス・ペンクラブ例会に出席、ミュンヘンウィーンイタリアなどを旅して、1959年帰国。1960年から招聘されてコロンビア大学及びミシガン大学で講義。帰国後、平野謙による「純文学歴史説」や、松本清張水上勉らの社会派推理小説の流行に刺激され、「『純』文学は存在し得るか」を発表、「純文学論争」を引き起こした。

1962年日本ペンクラブ副会長、また日本近代文学館設立時の理事となり、初代高見順の後を受けて1965年から理事長。1963年『日本文壇史』により菊池寛賞受賞。1964年東工大を退職、1967年日本芸術院賞受賞[12]、1968年日本芸術院会員。

1969年11月15日、癌性腹膜炎のため東京都豊島区上池袋がん研究会附属病院で死去[13]。戒名は海照院釈整願。叙正五位、叙勲三等瑞宝章。没後1970年、『変容』により日本文学大賞受賞。1952年から連載していた『日本文壇史』は瀬沼茂樹に引き継がれ、1976年に完結した(単行本は1953年から1978年にかけて全24巻。伊藤分は18巻まで)。1972年から1974年にかけて新潮社から『伊藤整全集』(全24巻)が刊行された。生前にも河出書房から全14巻が出ている。

伊藤滋(都市工学、東京大学名誉教授、早稲田大学教授、元慶應義塾大学教授)は長男。伊藤礼(エッセイスト、英文学者、元日本大学芸術学部教授)は次男。東京工業大学での英語の授業を受けた奥野健男は、その後「伊藤整論」を発表したことで師事を得て、『氾濫』で扱われる高分子学についても、自身の専門とする立場からの助言を行なった[14][15]

チャタレイ裁判編集

1950年6月、伊藤整が翻訳したD・H・ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』がわいせつ文書に当るとして摘発を受けた。警視庁は1949年に発売された石坂洋次郎『石中先生行状記』を摘発したが世論の反発で起訴猶予となり、1950年1月にはノーマン・メイラー裸者と死者』を発禁処分としたがGHQに「アメリカで公刊を許されたものがなぜ発売禁止になるのか」と抗議されて撤回しており、『チャタレイ夫人の恋人』も発売後に摘発を危惧されていた[7]。その際発行人の小山書店代表のみならず、翻訳者の伊藤整も起訴された。裁判では芸術性の高い文学作品を猥褻文書とすることの是非、翻訳者を罪に問うことの是非などが争われたが、1957年、最高裁は伊藤、発行人共に有罪とした。著者の『裁判』は、当事者の立場から、文学裁判を膨大かつ詳細な記録で問題提起した、ノンフィクションにして代表作のひとつである。また小山書店はこの裁判が始まると融資が受けられなくなり、経営が行き詰って倒産することとなった[7]

この翻訳は1964年に、戦後では珍しい伏字を使って出版された。同訳での他の文学全集もそれに拠っている。なお完訳は1973年に、講談社文庫から羽矢謙一訳が刊行され、75年の『世界文学全集』にも収録されたが、世間的には知られなかった。1996年に次男の伊藤礼が削除部分を補った完訳版を新潮文庫から出版し、出版時に多くのマスメディアが取り上げ、初の完訳という誤報を流した。

作品編集

『雪明りの路』は、1920年から小樽高等商業学校の校友會誌、同人誌『青空』『信天翁』『椎の木』に発表したものと、未発表作品を収めている。当時『藤村詩集』から様々な詩集、『日本詩人』などの詩誌を愛読し、佐藤惣之助萩原朔太郎や、上田敏『海潮音』、堀口大學『月下の一群』などの訳詩集の影響を受け、アーサー・シモンズイエーツデ・ラ・メアなどの英詩の原文をあたっていた[2]。作品は北海道の自然を背景とした、自由詩型抒情詩であり、扉にはイエーツを引用しており、出版当時小野十三郎は「あなたは誰よりもよく深く詩の本質を理解している。あなたは深い大きな共感、そのむしろ潜行的な力強い伝搬力を真底から把握している」と評し、瀬沼茂樹は「いかにも青春らしい思慕や、哀愁や、憧憬が、北海道の厳しい自然と綯いあわされて、きわめて上品で、特有な詩趣を実現していると思われる」と述べている[16]。『冬夜』は1925年から『椎の木』、及び伊藤と阪本越郎らによる第二次『椎の木』に発表された作品を収めて限定版として発行された。1954年刊『伊藤整詩集』はこの2詩集と、1929-30年に発表された作品、及び1948年に発表された「鳴海仙吉の詩」を収めており、1958年新潮文庫版『伊藤整詩集』ではこれに、1957年に川崎昇夫人が没した際に書いた「川崎くら子夫人を葬る詩」を納めている。これらの詩の何編かは、小説『鳴海仙吉』『幽鬼の村』に挿入されている。

1929年からは『詩と詩論』に欧米の現代詩人の紹介を寄稿しており、1931年から34年にかけてジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』の翻訳を進めていた伊藤は、ジョイスやマルセル・プルーストの手法について論じた「新心理主義文学」を1932年3月に『改造』に発表。これらの作品が「二十世紀はインテリゲンチアの知性の内向する時代、感性の捌口を持たぬ時代」を背景にしており、彼らが「新しい文学の様態を提出したのは、最早古き様態の文学に盛ることの出来ない新しい現実を彼らが発見した」と述べた。この評論は『詩と詩論』を発行していた厚生閣書店から、春山行夫編集の「現代の芸術と批評叢書」の一冊として、同4月にこれを含む『新心理主義文学』として刊行された。またその理論を「飛躍の型」「感情細胞の断面」「幽鬼の街」「幽鬼の村」等の実作として試みたが、「エッセイや小説はあらゆる種類の非難と嘲笑と否定と罵言と、また僅少の好意ある忠告」を受けた。[17] 小林秀雄は伊藤の「ジェイムス・ジョイスのメトオド『意識の流れ』に就いて」(1930)について評論「心理小説」で「極く普通の言ひ方で書かれた在来の小説が、本当に行き詰つてゐるのであるか、小説の極点は十九世紀で終わったと活動写真に色目を使負のと、たまたま泣きつ面の前に新しいお手本がひろげられた気で、これだこれだと浮き腰になるのとどつちが一体利口なのであらうか」「作家にとつて生々しい問題は文芸史発達の上にはない。己れの支へる文芸理論の深化にあるのだ。」と評し、また丹羽文雄は「伊藤はジョイスが流行ればジョイスを真似、プルウストが流行ればプルウストを真似、『得能五郎の生活と意見』も何とかいう外国小説の真似だ」と批判した。これに伊藤は1947年になってエッセイ「『トリストラム・シャンディイ』と『得能五郎』」にて「ジョイスとロレンスの代表作を初めて日本語に移したのは私である。それは無意義であったろうか。その影響なしに当代の日本文学は成立しているであろうか」と反駁している。[18]

『小説の方法』(1948)は近代日本文学を西欧文学と比較しつつ、初めて論理的、体系的にとらえた文芸批評である。続いて書かれた『小説の認識』では、チャタレイ裁判の体験も元に、芸術は「生命の側に立ち、人間を抑圧する秩序に反抗するもの」という考えを示し、これを実作『火の鳥』で示してみせた。[14] 1958年から刊行された『谷崎潤一郎全集』では全巻の解説を担当、自身の没後に『谷崎潤一郎の文学』として出版され、それまで無思想の作家とされてた谷崎への定説を覆してその思想を論じたとして、高い評価を受けた[19]

『小説の認識』(1955)は『小説の方法』を発展させたもので、本多秋五は『物語戦後文学史』で「マルクス主義芸術論を破ったこと」「「人格美学」なるものに終焉を宣言したこと」「現代では、力を持つものは「組織」であり、個人の生命のはたらく場所、その自由は微小だ、という認識に到達したこと」の3点を挙げている。ただし曾根博義は、志賀直哉に代表される日本的人格美学の形式である私小説も、「芸」への「移転」によって「本格小説」となりうるこを示しており、またマルクス主義文学も「イデオロギー抜きの思考方法」として肯定されていると論じ、「組織」の絶対性と相対性は「その後の社会学や政治学の発展、構造主義的方法の普及などにより、今日ではほとんど常識化」されていると述べている[20]

戦時中に書いた『得能五郎の生活と意見』では、私小説の方法をパロディ化した自己戯画によって風刺する文体を用いた。戦後の『鳴海仙吉』はこの方法を用いて、自分を含めた戦時中の知識人への批判、反省を主題にしつつ、内向的、倫理的な作品となっている。その後のチャタレイ裁判について『伊藤氏の生活と意見』では芸術の正当性を述べるとともに、女性を含めた既成の性道徳への批判にも及んだ。これを読んだ『婦人公論』編集者が、女性への批判や考えについての連載を依頼し、戯文調の、女性を嘲笑するかのような批判から、人生論、文学論にまで及ぶエッセイ『女性に関する十二章』は、中央公論社から花森安治デザインの新書版で単行本化され、3ヶ月連続ベストセラー1位となり、50万部を売り上げた。ここで取り上げた女性論、人生論は、『氾濫』『発掘』『変容』の長編三部作で作品化された。[21]

自伝的小説として、少年期を題材にした『少年』、小樽時代から上京までの青年期を題材にした『若い詩人の肖像』、また同じ舞台によるフィクション『青春』『幽鬼の街』があり、戦後に書いた『鳴海仙吉』も、自己暴露、自己分析的作品と言える。

詩集編集

  • 『雪明りの路』椎の木社、1926年(木馬社、1952年)
  • 『冬夜』近代書房[発売インテリゲンチヤ社]、1937年(細川書店、1947年)
  • 『伊藤整詩集』光文社、1954年(新潮文庫、1958年)

小説編集

  • 『生物祭』金星堂、1932年(短編集)のち講談社文芸文庫
  • 『イカルス失墜』椎の木社、1933年(短編集)のち新潮文庫
  • 『石狩』版画荘、1937年(短編集)
  • 『馬喰の果』新潮社、1937年(短編集)のち文庫
  • 『石を投げる女』竹村書房、1938年(短編集)
  • 『青春』河出書房、1938年 のち角川文庫、新潮文庫
  • 『街と村』第一書房、1939年 のち講談社文芸文庫
  • 『霧氷』三笠書房、1940年 のち角川文庫
  • 『典子の生きかた』河出書房、1940年 のち角川文庫
  • 『吉祥天女』金星堂、1940年(短編集)
  • 『祝福』河出書房、1940年(短編集)
  • 『得能五郎の生活と意見』河出書房、1941年 のち新潮文庫
  • 『得能物語』河出書房、1942年 のち新潮文庫
  • 『故郷』協力出版社、1942年(短編集)
  • 『父の記憶』利根書房、1942年(短編集)
  • 『童子の像』錦城出版社、1943年
  • 『雪国の太郎』帝国教育会出版部、1943年
  • 『三人の少女』淡海堂、1944年(少女小説)
  • 『微笑』南北書園、1947年(短編集)
  • 『鳴海仙吉』細川書店、1950年 のち新潮文庫、岩波文庫
  • 『花ひらく』朝日新聞社、1953年 のち角川文庫
  • 火の鳥光文社、1953年 のち新潮文庫、角川文庫
  • 『海の見える町』新潮社 1954年(短編集)
  • 『感傷夫人』中央公論社、1956年 のち角川文庫
  • 『町 生きる怖れ』角川文庫、1956年
  • 『少年』筑摩書房、1956年
  • 『若い詩人の肖像』新潮社、1956年 のち新潮文庫、講談社文芸文庫
  • 『誘惑』新潮社、1957年 のち角川文庫
  • 『氾濫』新潮社、1958年 のち新潮文庫
  • 『泉』中央公論社、1959年 のち角川文庫
  • 『虹』中央公論社、1962年
  • 『同行者』新潮社、1969年
  • 『変容』岩波書店、1968年 のち岩波文庫
  • 『花と匂い』新潮社、1970年
  • 『年々の花』中央公論社、1970年(未完)
  • 『発掘』新潮社、1970年
  • 『街と村・生物祭・イカルス失墜』(講談社文芸文庫、1993年)

評論・随筆等編集

  • 『新心理主義文学』厚生閣書店、1932年
  • 『小説の運命』(竹村書房、1937年)
  • 『芸術の思想』(砂子屋書房、1938年)
  • 『現代の文学』(河出書房、1939年)
  • 『四季 随筆集』(赤塚書房、1939年)
  • 『私の小説研究』(厚生閣、1939年)
  • 『文学と生活』(昭和書房、1941年)
  • 『満洲の朝』(育生社弘道閣、1941年)。旅行記
  • 『文芸と生活・感動の再建』(四海書房 1941年)
  • 『小説の世界』(報国社、1942年)
  • 『戦争の文学』(全國書房、1944年)
  • 『小説の問題』(大地書房、1947年)
  • 『文学の道』南北書園、1948年(『私の小説研究』加筆改題)
  • 『小説の方法』(河出書房、1948年)、のち河出文庫(旧)、新潮文庫、筑摩叢書、岩波文庫(新版校訂)
  • 『伊藤整文学論選集』(実業之日本社、1949年)
  • 『我が文学生活』(細川書店、1950年)
  • 『性と文学』(細川書店、1951年)
  • 『裁判』(筑摩書房、1952年)、のち旺文社文庫、晶文社(各・上下)
  • 『伊藤整氏の生活と意見』(河出書房、1953年) のち角川文庫
  • 日本文壇史』(18巻目まで、大日本雄弁会講談社/講談社、1953-1973年、のち新装版刊)、講談社文芸文庫(改訂新版)
  • 『文学入門』(光文社カッパブックス、1954年、新版刊) のち光文社文庫、講談社文芸文庫(改訂新版)
  • 女性に関する十二章』(中央公論社、1954年)、のち角川文庫、中公文庫
  • 『我が文学生活』(全6巻:講談社、1954-1964年)
  • 『文学と人間』(角川新書、1954年)
  • 『小説の認識』(河出書房(新書)、1955年)、のち新潮文庫、岩波文庫(新版校訂)
  • 『芸術は何のためにあるか』(中央公論社、1957年)
  • 『現代知性全集5 伊藤整集』(日本書房、1958年)
  • 『近代日本の文学史』(光文社カッパブックス、1958年)、夏葉社(新版校訂・2012年)
  • 『作家論』(筑摩書房、1961年) のち角川文庫
  • 『ヨーロッパの旅とアメリカの生活』(新潮社、1961年)
  • 『求道者と認識者』(新潮社、1962年)
  • 『現代人生論全集9 伊藤整集』(雪華社、1966年)、復刻「私の人生論8 伊藤整」(日本ブックエース、2010年) 
  • 『愛と性について』1970年、大和書房
  • 『知恵の木の実』(「人と思想」文藝春秋、1970年)
  • 谷崎潤一郎の文学』(中央公論社、1970年)。新書版「全集」の解説
  • 『小説の方法・小説の認識』(「名著シリーズ」講談社、1970年、新版1972年)
  • 『近代日本人の発想の諸形式』(岩波文庫、1981年)。奥野健男編・解説
  • 『太平洋戦争日記』(全3巻、新潮社、1983年)

主な編著編集

  • 『文章読本』(河出書房(新書)、1954年)
  • 『ジョイス研究』(英宝社、1955年、新版1967年)
  • 『夏目漱石研究』(新潮社、1958年)
  • 『20世紀英米文学案内9 ジョイス』(研究社出版、1969年)

翻訳編集

  • ジェイムズ・ジョイス『ユリシイズ』永松定辻野久憲共訳 第一書房、1931-1934
  • ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』(削除版)健文社、1935
  • 『狭き門 ジイド全集』金星堂、1935
  • 『贋金づくり ジイド全集』葛川篤共訳 金星堂、1935
  • ロレンス『恋愛論』健文社、1936
  • ロレンス『恋する女』原百代共訳、三笠書房、1936
  • 『ロレンス文学論』永松定共訳、昭森社、1937
  • 『世界文豪読本 ロレンス篇』第一書房、1937年
  • クロポトキン『ロシア文学講話』改造社、1938-1939
  • 『ユリシーズ』河出書房、1938年
  • ソーントン・ウィルダア『運命の橋』新潮社、1940 のち文庫
  • エディス・ウォートン『汚れなき時代』三笠書房、1941
  • レイモント『農民 第三部』第一書房、1941
  • D.H.ローレンス『メキシコの朝』 育生社弘道閣、1942
  • クロポトキン『ロシヤ文学の理想と現実』瀬沼茂樹共訳、改造社 1947
  • バーネット『小公女』鎌倉書房、1949 のち新潮文庫
  • 『チャタレイ夫人の恋人 ロレンス選集』小山書店、1950 のち新潮文庫
  • グレアム・グリーン『事件の核心』新潮社、1951 のち文庫
  • R.L.スティーヴンソン『メリーメン・黒い矢』せいかつ百科刊行会、1955年
  • 『D.H.ロレンスの手紙』永松定共訳 弥生書房 1956-1957年
  • ロレンス『息子と恋人』河出書房新社、1960年
  • オルコット『若草物語』講談社、1962

作品集編集

  • 『伊藤整作品集』全5巻、河出書房、1953年
  • 『伊藤整全集』全14巻 河出書房、1955-1956年
  • 『伊藤整作品集』光文社、全10巻、1957-1959年
  • 『伊藤整全集』全24巻 新潮社、1972-1974年
  • 『未刊行著作集12 伊藤整』(白地社 1994年)

編集

[ヘルプ]
  1. ^ 白樺文学館公式ホームページ>171. 「小林多喜二と伊藤整」
    伊藤整:作家事典:ほら貝
  2. ^ a b 『伊藤整詩集』新潮文庫、1958年(あとがき)
  3. ^ 瀬沼茂樹「文学思想の懐胎」(『新潮日本文学31 伊藤整集』新潮社 1970年)
  4. ^ 吉本隆明『言語にとって美とはなにか』
  5. ^ 奥野健男『日本文学史 近代から現代へ』中央公論社、1970年
  6. ^ 平野謙『昭和文学史』筑摩書房 1963年
  7. ^ a b c 大村彦次郎『文壇栄花物語』ちくま文庫 2009年
  8. ^ 春山陽一「サザエさんをさがして――伊藤整――タイトルは時代を表す」『朝日新聞』44308号、be on Saturday、朝日新聞東京本社2009年8月29日、b3面。
  9. ^ 昭和29(1954)年のベストセラーウェブ電藝
  10. ^ 曾根博義「伊藤整ブームと『日本文壇史』の方法」(『日本文壇史 2』講談社学術文庫 1995年)
  11. ^ 大村彦次郎『文壇挽歌物語』ちくま文庫 2011年
  12. ^ 『朝日新聞』1967年4月7日(東京本社発行)朝刊、14頁。
  13. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)36頁
  14. ^ a b 奥野健男(『日本の文学 59 伊藤整』中央公論社 1965年)
  15. ^ 奥野健男「解説」(『近代日本人の発想の諸形式』岩波文庫、1981年)
  16. ^ 『伊藤整詩集』新潮文庫、1958年(瀬沼茂樹解説)
  17. ^ 千葉俊二坪内祐三編『日本近代文学評論選』岩波文庫 2004年
  18. ^ 佐伯彰一(『新潮日本文学31 伊藤整集』新潮社 1970年)
  19. ^ 樋口覚「作家案内 伊藤整 伊藤整と三島由紀夫」(『日本文壇史 1』講談社学術文庫 1994年)
  20. ^ 曾根博義(『小説の方法』岩波文庫 2006年)
  21. ^ 奥野健男「解説」(『女性に関する十二章』中公文庫、1974年)

参考文献編集

  • 年譜(『日本の文学59 伊藤整』中央公論社 1965年)
  • 年譜(『新潮日本文学31 伊藤整集』新潮社 1970年)

外部リンク編集