伊達宗徳
日本の江戸時代の大名
伊達 宗徳(だて むねのり)は、江戸時代後期の大名、明治時代の華族。最終的な位階爵位は正二位侯爵。
伊達宗徳 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代後期 |
生誕 | 文政13年閏3月27日(1830年5月19日) |
死没 | 明治38年(1905年)11月29日[1] |
改名 | 扇松丸(幼名)→宗徳 |
別名 | 馨山(号)、紀周、宗周、兵五郎 |
戒名 | 霊照院殿旧宇和島城主正二位馨山宗徳大居士 |
墓所 | 愛媛県宇和島市野川の大隆寺 |
官位 | 従四位下・遠江守、正二位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 伊予宇和島藩主→宇和島藩知事 |
氏族 | 伊達氏(宇和島伊達家) |
父母 |
父:伊達宗紀、母:吉見氏 養父:伊達宗城 |
兄弟 | 徳千代、宗徳、篤之助、松平忠淳、就、長、喜、貞、信、正子、節子ら |
妻 |
正室:毛利斉元次女・孝子 継室:佐竹義厚長女・佳子 |
子 |
宗陳、富子、本多康虎、紀隆、武四郎、 剛吉郎、丹羽長徳、一柳直徳、重正、 二荒芳徳、十郎 |
伊予国宇和島藩第9代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事。明治以降華族に列し、華族令施行により伯爵となり、明治24年(1891年)4月23日に、養父・伊達宗城の勲功により侯爵に陞爵する。
生涯
編集第7代藩主・伊達宗紀の三男として生まれる。
天保8年(1837年)、従兄にあたる第8代藩主・宗城の養嗣子となり、安政5年(1858年)11月23日に宗城が井伊直弼の安政の大獄で隠居処分となったため、家督を相続した。藩主就任後も実権は宗城に掌握されていたが、それでも宗城の改革路線を引き継いで専売制の強化、西洋式軍制の導入、教育などの普及など様々な改革で成果を挙げている。しかし、やはり宗城の存在は大きく、宗徳はお飾りの立場に近かった。
1891年(明治24年)4月23日に侯爵に陞爵し[2]、貴族院侯爵議員となる[1][3]。
明治38年(1905年)11月29日、76歳で死去した。法号は霊照院殿旧宇和島城主正二位馨山宗徳大居士。墓所は愛媛県宇和島市野川の大隆寺。
栄典
編集系譜
編集- 父:伊達宗紀(1792年? - 1889年) - 第7代藩主
- 母:吉見氏
- 兄弟姉妹
- 養父:伊達宗城(1818年 - 1892年) - 第8代藩主
- 正室:孝子 - 毛利斉元次女
- 継室:佳子 - 佐竹義厚長女
- 生母不明の子女
井上三郎 ┃ ┣━━━井上光貞 ┃ ┃ 井上馨━━千代子 ┃ ┃ 伊達宗徳━━二荒芳徳 ┃ ┃ ┏明子 ┣━━┫ ┃ ┗治子 北白川宮能久親王━━━拡子 ┃ ┃ 石坂泰三 ┏石坂一義 ┃ ┃ ┣━╋石坂泰介 ┃ ┃ 織田一━━雪子 ┣石坂泰夫 ┃ ┣石坂泰彦 ┃ ┣石坂信雄 ┃ ┣智子 ┃ ┗操子 ┃ 霜山精一━━霜山徳爾
脚注
編集参考文献
編集- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 陞爵 |
侯爵 (宇和島)伊達家初代 1891年 - 1905年 |
次代 伊達宗陳 |
先代 叙爵 |
伯爵 (宇和島)伊達家初代 1884年 - 1891年 |
次代 陞爵 |