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伊達 持宗(だて もちむね、1393年明徳4年) - 1469年2月19日応仁3年1月8日))は、室町時代前・中期の武将・地頭(この当時、奥羽両国には守護職はなく、陸奥国には奥州探題が置かれていた。補足事項として、伊達氏が陸奥守護職に補任されたのは持宗の三代後となる伊達稙宗から)。伊達氏の第11代当主。第10代当主・伊達氏宗の嫡男。官位は兵部少輔。大膳大夫。

目次

生涯編集

幼名は松犬丸。には持宗のほか、別名として泰宗(やすむね)が伝わっており、名乗ったとすれば持宗より前と思われる。「持」の字は室町幕府第4代将軍足利義持から偏諱を賜ったものである[1]

1409年応永16年)、鎌倉公方足利持氏に代替わりすると、篠川御所である足利満直と持氏の関係が悪化したため、次第に満直は幕府と結びついて南奥諸氏を反持氏でまとめる工作を行っている。

1412年(応永19年)、父の死により家督を継ぐと、1413年(応永20年)に鎌倉府(鎌倉公方足利持氏)に対して反旗を翻し、篠川・稲村御所を襲撃する。怒った持氏は畠山氏二本松氏)に持宗討伐を命じ大仏城(福島市)を落とすが、当時は持氏と関東管領上杉氏憲らの対立(上杉禅秀の乱)もあったため、鎌倉側は伊達氏を完全に討伐することができなかった(伊達持宗の乱若しくは伊達松犬丸の乱)。その後、持宗は幕府に帰順し、寺社造営などで功を挙げた。

越後応永の大乱1423年(応永30年)-1426年(応永33年))の際には、守護側から援軍を求められ黒川城を攻めている。

1426年(応永33年)、居城を梁川城(福島県)に移す。永享の乱1438年永享10年))では幕府側として鎌倉を攻め、結城合戦に端を発する足利満直の殺害(1440年(永享12年))に関与した。

享徳の乱に際して、1455年享徳4年)と1460年長禄4年)に幕府から鎌倉府討伐の指令が下る。1462年寛正3年)2度目の上洛をし将軍・足利義政に拝謁し、黄金三万疋を献上したという。

1469年に死去。享年77。法号は天海。後を嫡男(次男)の成宗が継いだ。

系譜編集

脚注編集

  1. ^ 父・氏宗は第2代鎌倉公方の足利氏満から偏諱を受けていたが、子である持宗の「持」の字は足利持氏から賜ったものではなく、在京中(持宗は一生涯のうちに二度上洛している)に将軍・義持から1字を受けたという(こちらより)。元々伊達氏は鎌倉公方に対抗的であり、氏宗への「氏」の字の授与も氏満による懐柔策に過ぎなかった。持宗の代でもそれは変わらず、(本文にある通り)持氏と対立する一方で、鎌倉公方と対立する足利将軍家寄りの人物であったと言える。以降、伊達政宗の父・輝宗までの歴代当主は代々、将軍家より偏諱の授与を受けている。(京都扶持衆

参考文献編集

  • 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 上巻』 1994