会田御厨(あいだのみくりや)は信濃国筑摩郡にあった伊勢神宮内宮の御厨長野県筑摩山地会田川流域から犀川右岸一体にあたる。

歴史

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古代の筑摩郡錦服郷の地にあたる[1]鎌倉時代嘉暦4年(1329年)の「諏訪上社頭役注文」が初出で、通常は伊勢神宮の神領が諏訪大社の祭礼に勤仕することはないが[2]、会田御厨では信濃国の諸荘と同様、地頭の海野信濃守入道が頭役を務めている。また『神鳳鈔』には「会田御厨70町」とあり、鎮守の会田御厨神明宮もこの時期に創建されたとされる[1]

室町時代には口入神主の荒木田氏の私領化し、寛正5年(1464年)には内宮禰宜荒木田永量から、永尚、永家の二子に折半された[1]享徳4年(1455年)の御射山祭事費を、海野氏流の会田岩下三河(守)重阿が負担しており(『諏訪御符礼之古書』)、以後複数回にわたって頭役を勤仕している。

戦国時代には武田氏の支配の下、青柳頼長の所領となっており、永禄9年(1566年)の『諏訪社上社造営再興次第』には「会田御厨五ケ条」として刈谷原、明科、塔原、会田、多沢(田沢)の5か村が挙げられている。天正7年(15年)の『上諏訪造営清書帳』では「会田之郷」として造営役500貫文を負担している。

同9年(1581年)には内宮御師の宇治久家が訪問(『信濃国道者之御祓くばり日記』)、武田氏滅亡後の同10年(1582)年には、頼長によって伊勢神宮に寄進された[2]

脚注

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  1. ^ a b c 「日本史大事典」p.574
  2. ^ a b 「角川日本地名大辞典」p.64

参考文献

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  • 『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』(平凡社、1979年)
  • 角川日本地名大辞典 20 長野県』(角川書店、1990年)