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佐世 元嘉(させ もとよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将尼子氏毛利氏の家臣で長州藩士。長州藩では初代当職を務める。石見守と称す。佐世清宗の次男。

 
佐世元嘉
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文15年(1546年
死没 元和6年7月9日1620年8月7日
改名 佐世元祝→佐世元嘉
別名 通称:与三左衛門
法名:入道宗孚
官位 石見守長門守
主君 尼子晴久義久毛利元就輝元秀就
長州藩
氏族 宇多源氏佐々木氏流佐世氏
父母 父:佐世清宗
兄弟 正勝元嘉大二郎
元量、女(蜷川元親室)、
女(三上元勝室)、女(飯田元在室)、
女(宍戸元真室)、女(児玉元次室)、
女(梨羽景宗室)、女(阿曽沼就郷室)
女(児玉某室)、女(益田就固室)、
女(野村元次室)、女(乃美就宣室)
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生涯編集

天文15年(1546年)、佐世清宗の次男として生まれる。

初めは父や兄と共に尼子氏に仕えたが、永禄9年(1566年)の毛利元就による月山富田城の戦いの際に毛利氏に降伏しその家臣となった。なお、この時に弟の佐世大二郎が城内に取り残され、尼子氏に殺害された。毛利氏に仕えて以後は尼子氏旧臣ながらも、譜代家臣との区別無く重用された。

天正14年(1586年)、元就の孫・毛利輝元児玉元良の娘で杉元宣の妻であった二の丸殿を奪う際に、元嘉や杉山元澄就澄親子に命じて略奪させたと言われている。

天正20年(1592年)から始まる豊臣氏による朝鮮出兵で、主君の輝元が肥前名護屋城に滞陣している間は留守となっている毛利領の政治を任されている。また、輝元が朝鮮から帰国した文禄2年(1593年)8月以降、毛利氏の中央行政は、元嘉のほかに二宮就辰榎本元吉堅田元慶張元至の5人の輝元出頭人が担うようになった。この5人は、様々な出自や経歴を持つ人物たちで出自や家格にとらわれず能力評価に基づいて人材登用を図る輝元の姿勢が窺える。文禄3年(1594年9月10日、輝元から「石見守」の受領名を与えられた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しても、広島城の留守居役を務め、毛利氏の防長移封後は旧所領の六ヶ国返租問題の解決に取り組み、その解決に導いた。長州藩の重職の当職になったのも元嘉が最初である。また、一国一城令で廃城になるまで周防国山口の高嶺城の城番を務めた。

しかし、次第に輝元は嫡男・秀就の伯父である児玉元兼や譜代家臣筆頭格の福原広俊、有力国人筆頭格の益田元祥を重用するようになっていた。この3人は幕府との交渉に携わって上方へ滞在することも多いが、元嘉は在国していることが多いため幕閣との親交が深くなく、毛利氏減封の一因とされた伊予出兵に元嘉が深く関与していた[注釈 1]ことも影響し、そうした幕府との関係の浅さが元嘉の権限を制約していった。そのため、元嘉は慶長13年(1608年)頃には当職の座を退いている[1]。翌慶長14年(1609年)には「佐世宗孚書案」を記した[注釈 2]

慶長6年(1601年7月2日に兄の正勝が嗣子のいないまま死去したため、元嘉の嫡男である元量が佐世氏の家督と正勝の知行300石を相続した。慶長8年(1603年12月29日に輝元から「長門守」の受領名を与えられ、慶長18年(1613年7月23日には2633石余の知行を与えられた[注釈 3]

隠居に際しては子の元量に2000石の知行を譲り渡し、元和6年(1620年7月9日に死去した。享年75。

なお、幕末志士で後に萩の乱の首謀者となった前原一誠は元嘉の末裔にあたる。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 伊予出兵は元嘉、村上武吉元吉父子、伊予国人曽根景房らが中心となって準備を行っていた。
  2. ^ 「佐世宗孚書案」は藩政の表舞台から去った直後に書かれたものであるため、元嘉の藩政に対する不満を反映した内容となっているとされ、一例として、毛利秀元が輝元の養子となった経緯や、小早川秀秋小早川隆景の養子となった際の経緯について明らかに事実と異なる記述をしており、故意に虚説を記したものと考えられている[2]
  3. ^ 内訳は、周防国吉敷郡賀川庄1247石6斗余、長門国厚東郡小野村827石3斗余、長門国美祢郡嘉万郷531石1斗余、長門国阿武郡篠目村26石9斗余。

出典編集

  1. ^ 光成 2019, p. 191.
  2. ^ 光成 2019, p. 189-191.

参考文献編集