佐藤二朗 (野球)
佐藤 二朗(さとう つぎお、1980年10月25日 - )は日本の野球選手(内野手)。現在は、社会人野球・ヤマハ硬式野球部に所属。
ヤマハ硬式野球部 #36 | |
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基本情報 | |
国籍 |
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出身地 |
![]() サンパウロ州モジ・ダス・クルーゼス |
生年月日 | 1980年10月25日(38歳) |
身長 体重 |
182 cm 87 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手 |
プロ入り | 1999年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
国際大会 | |
代表チーム |
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WBC | 2013年、2017年(予選) |
この表について
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ヤクルトスワローズでは1999年はツギオ佐藤、2000年から2003年はツギオの登録名でプレーした。
目次
来歴・人物編集
元日系ブラジル人三世で、フルネームはツギオ・レイナルド・サトウ(Tsugio Reinaldo Sato)[1]。
父親の佐藤允禧は野球ブラジル代表の監督や、ブラジルヤクルト商工がブラジルに設立したヤクルト野球アカデミーの校長を務めていたことから、1999年にヤクルトスワローズに入団。叔父は元阪急ブレーブスの佐藤滋孝[2]、弟は白鴎大学・三菱ふそう川崎でプレーした後、白鴎大のコーチを経て現在深谷組(埼玉県)で監督を務める佐藤レナン勇。[3]
ヤクルト時代編集
当初は非力なバッティングに粗い守備が目立っていたが、徐々に弱点をカバー、二軍では主軸を打つようになる。しかし、当時のヤクルト一軍打撃陣にはロベルト・ペタジーニ、アレックス・ラミレスの二枚看板がおり、外国人投手のために枠を空けておくためにツギオは一軍に上がることができなかった。
そこで2003年シーズン中、松元ユウイチとともに日本に帰化することを決意。ブラジルの両親の許しを受け、「日本で野球がしたいから」と帰化申請を行った。しかし申請の結論が出る前の2003年オフ、戦力外通告を受けた。
社会人時代編集
ヤクルトから戦力外通告を受け、シダックス野球部に入部。同部はかつてヤクルトで9年間監督を務めた野村克也を、2002年秋から監督兼GMに迎えていた。当時ヤクルトの選手人事を掌握していた丸山完二編成部長は、「野村監督の下で鍛えていただき、成長次第ではまたヤクルトとの契約もありうる」とコメントしていた。
2004年からは当時シダックスに在籍していたオレステス・キンデラン、アントニオ・パチェコの両キューバ人内野手と中軸打線を組み、2選手が体力の衰えを理由に2004年を最後に現役を引退して帰国すると野村監督は佐藤を4番に抜擢。当初はなかなか結果が伴わなかったが、徐々に持ち前の長打力を発揮し、「4番・セカンド」のレギュラーを確保した。
2006年シーズン限りでシダックス野球部が解散したのに伴い、2007年からはヤマハに転籍。ヤマハでもクリーンナップを打ち、2010年シーズンは第81回都市対抗野球・第37回社会人野球日本選手権大会の両大会で上位進出に貢献、社会人ベストナインに選出された。また、第3回WBCブラジル代表にも選出され、「5番・指名打者」としてA組1回戦の日本戦では4回裏に杉内俊哉から一時は同点に追いつくタイムリーヒットを放った。
詳細情報編集
主な表彰編集
- 社会人ベストナイン(2010年)
- 都市対抗野球本大会10年連続出場表彰(2016年)
脚注編集
- ^ ワールドベースボールクラシック・ブラジルの項目より。[リンク切れ]
- ^ ヤマハ野球部が新戦力6人を発表 若い力に期待
- ^ 佐藤 レナン 勇株式会社深谷組ブログ 2013年8月6日付 2016年9月21日閲覧