佐藤 忠康(さとう ただやす、生年不詳 - 永禄8年8月29日1565年9月23日)は、戦国時代武将加治田城佐藤忠能の嫡男。通称は右近右衛門。信氏とも。兄弟に昌信、斎藤利治室、佐藤継成室、仁甫竜義大姉、岸信周養女(八重緑)、能信がいる[1]

生涯編集

初め、父忠能は美濃斎藤氏に仕え、尾張織田信長の侵攻に備えるため、関城長井道利堂洞城岸信周とともに盟約を結び、その際に妹の八重緑は信周へ養女(人質)として出された[2]。しかし、忠能が信長に内通したため、八重緑は加治田城に面した長尾丸山で磔にされた[3]

その翌日の永禄8年8月28日1565年9月22日)に行われた堂洞合戦では、父忠能とともに忠康は堂洞城を北側から攻め、織田軍が南と西から攻めた結果、堂洞城は落城。その夜に信長は忠能の屋敷に一泊し、忠能・忠康父子は感激して喜んだという[3]。翌29日、信長の引き揚げた加治田城へ長井道利が攻め寄せ関・加治田合戦が行われた。加治田城西大手口絹丸は、忠康と織田方からの援軍として斎藤利治が守備した。そこで激戦となる中、忠康は騎乗し縦横に駆け回って指揮をとったが、敵の矢を受け落馬して討死した[4]

道利を撃退した後、利治は関城を攻め、道利を城から退去させた。忠康の死去により、忠能の跡目は信長の命令によって利治に継がれることとなった[5]

なお、この忠能から利治への家督相続については、『三十一祖御修行記』[6]の記述により、永禄8年から10年の間に忠康と弟昌信の間で争いが置き、昌信が忠康を殺して加治田城を奪ったが、稲葉山城攻撃の直前だったため、信長の喚起に触れて忠能は引退し、昌信は武芸八幡に移封またはお預けとなって、子孫はこの不名誉を忠康が戦死したことにして隠蔽したという説がある[7]

また、忠康を弘治元年(1556年)12月の時点で斎藤義龍に加勢して戦功をあげた桑原右近衛門尉で、忠能の養子になったと見る説もある。ただし、桑原右近衛門尉と忠能の同一人物説や、無関係説もある[8]

関連項目編集

脚注編集

  1. ^ 富加町史編集委員会「佐藤氏系譜」『富加町史』下巻 通史編、岐阜県加茂郡富加町、1980年、209頁。
  2. ^ 富加町史編集委員会「中濃三城の盟約」『富加町史』下巻 通史編、富加町、1980年、184 - 192頁。
  3. ^ a b 富加町史編集委員会「堂洞合戦」『富加町史』下巻 通史編、富加町、1980年、192 - 194頁。
  4. ^ 富加町史編集委員会「堂洞合戦 関・加治田合戦」『富加町史』下巻 通史編、富加町、1980年、198 - 199頁。
  5. ^ 富加町史編集委員会「堂洞合戦 関 落城」『富加町史』下巻 通史編、富加町、1980年、199頁。
  6. ^ 時宗の31代遊行上人同念の近侍者が天正8年(1580年)3月以降あまり時日を経ずして書いたといわれるもの(関市教育委員会「佐藤紀伊守家の内紛」『新修 関市史 通史編 自然・原始・古代・中世』関市、1996年、852 - 856頁。)。
  7. ^ 関市教育委員会「佐藤紀伊守家の内紛」『新修 関市史 通史編 自然・原始・古代・中世』関市、1996年、852 - 856頁。
  8. ^ 美濃加茂市「桑原右近衛門尉」『美濃加茂市史』通史編、美濃加茂市、1980年、264 - 267頁。

参考文献編集

外部リンク編集