佐藤愛子 (作家)
日本の小説家
佐藤 愛子(さとう あいこ、1923年11月5日[1] - )は、日本の小説家。
佐藤 愛子 (さとう あいこ) | |
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誕生 |
1923年11月5日(97歳)![]() |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 |
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最終学歴 | 甲南高等女学校卒業 |
ジャンル |
小説 エッセイ |
代表作 |
『ソクラテスの妻』(1963年) 『花はくれない――小説佐藤紅緑』(1967年) 『戦いすんで日が暮れて』(1969年) 『女優万里子』(1974年) 『血脈』(1989年-2000年) |
主な受賞歴 |
直木賞(1969年) 女流文学賞(1979年) 菊池寛賞(2000年) 紫式部文学賞(2015年) 旭日小綬章(2017年) |
配偶者 | 田畑麦彦 |
親族 |
佐藤紅緑(父) サトウハチロー(異母兄) 大垣肇(異母兄) 杉山弘幸(娘婿) |
大阪市生まれ・西宮市育ち。小説家・佐藤紅緑と女優・三笠万里子の次女として出生。異母兄に詩人・サトウハチローと脚本家・劇作家の大垣肇。甲南高等女学校(現・甲南女子高等学校)卒業。
経歴編集
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2015年3月) |
- 1923年 - 11月5日(戸籍上は11月25日)佐藤洽六(紅緑)(50歳)・シナ(30歳)の次女として、大阪市住吉区帝塚山に出生。母・シナは元女優(芸名三笠万里子)。父は先妻はるを棄ててシナ(25歳)と再婚[2]。
- 1925年 - 兵庫県武庫郡鳴尾村(現西宮市)に転居。自ら「私の故郷」と呼んでいる[3]。
- 1931年 - 小学校時代、大衆小説の大家である父へ送られてくる雑誌の恋愛小説を読みふける。算術は苦手であった。
- 1936年 - 4月、神戸の甲南高等女学校に入学。スポーツや演劇でクラスの人気者になる。自己嫌悪にも陥った。[4]
- 1941年 - 3月、女学校卒業。兄サトウ・ハチローの家に寄寓する。雙葉学園英語科に入学するが3か月で中退。帰郷し7月肋膜炎で臥床。治癒した頃に戦争が勃発。
- 1942年 - 防火演習や防空壕掘りなどをして、花嫁修業はせず無為に過ごす。
- 1943年 - 12月、最初の夫となる病院長の長男、森川弘と見合い結婚し、岐阜県恵那市(旧大井町)で暮らす。「戦争だから、しようがないから結婚していた」という[5]。 森川は陸軍航空本部勤務のため、飛行場設営隊の主計将校として赴任、同地で約5カ月の新婚生活をおくる。[6]
- 1944年 - 11月、清水市(現静岡市清水区)の疎開中の実家で長男出産。
- 1945年 - 夫の実家である大井町にて敗戦を迎える。「戦争が敗けて、これで自分もこの結婚を解消して、自分の好きな道に進めるんじゃないかということを考えた」という[5]。人手の多い病院で、穏やかな日々を過ごす。この年、次兄が被爆死。三兄がフィリッピンで戦死。[7]
- 1946年 - 復員した夫、長男とともに千葉県東葛飾郡田中村、現柏市で帰農生活に入る。軍隊在職中の腸疾患治療のための夫のモルヒネ中毒(依存症)に悩む。
- 1947年 - 長女、夏を出産。
- 1949年 - 父、紅緑死去。享年76。 夫のモルヒネ依存症は戦後も治癒せず。世田谷区上馬にて母と共に暮らすこととなる。母に勧められて田中村の生活を書いた小説を父に見せたところ、「面白い」と言われて文学を志す。父の紹介で加藤武雄に原稿を見てもらう。子供2人は婚家先の両親が引き取る。[8]
- 1950年 - 同人雑誌「文藝首都」に参加、北杜夫、田畑麦彦、なだいなだらがいた。同誌に処女作『青い果実』が発表され、同作で文芸首都賞受賞。
- 1951年 - 別居中の夫、死去。同人誌に「西風の街」6月号に『宇津木氏の手記』を発表。同人誌仲間と渋谷、新宿を歩きまわる。仲間には後の結婚相手もいた。[9]
- 1952年 - 「冷焔」を発表。その後、しばらく文学への自信を喪失。
- 1953年 - 母と衝突し、信州伊那谷の鉱泉に1か月滞在。田畑が訪れ、関西地方をともに旅をしたことが、結婚の契機となる。6月、実家を出、自立。聖路加国際病院で庶務課員、病院ハウスキーパーとして働き始める。
- 1954年 - 『埋もれた土地』を「三田文学」に発表。
- 1955年 - 12月、聖路加病院を退職。
- 1956年 - 2度目の夫、田畑と結婚。披露宴が4月1日であったため、嘘だと思って来なかった客もいたともいう。田畑と暮らしていた渋谷区初台の家売却、母、世田谷区上馬の家売却。世田谷区太子堂にて、母と同居。新居は文学仲間のサロンとなった。[10]
- 1957年 - 田畑、川上宗薫らと同人誌「半世界」を創刊。
- 1959年 - 「三田文学」に作品掲載
- 1960年 - 3月、田畑との間の長女響子出産。母との共同出資で自宅を新築。
- 1962年 - 最初の著作『愛子』を刊行。 田畑、第1回文藝賞を受賞。 田畑の父が生前に東京急行電鉄の社長を務めていたことがきっかけで、産業教育教材販売会社「日本ソノサービスセンター」の設立、経営に参加。
- 1963年度 - 上半期『ソクラテスの妻』で芥川賞候補。連続して下半期『二人の女』で芥川賞候補。
- 1966年 - この頃からエッセイの注文が増える。
- 1967年 - 12月、田畑の会社、倒産。夫の借金を背負う。倒産額は2億で、うち3500万円位、引き受ける[11]。債権者に追われ、原稿料が会社の債務返済に消えていく日々が続く。借金返済のために多数のジュニア小説を執筆。
- 1968年 - 1月、「借金から身を守るための偽装離婚」という田畑の説得で離婚。
- 1969年度上半期 - その体験を描いた『戦いすんで日が暮れて』で直木賞を受賞。波乱万丈の人生は、その後の自身の執筆活動にも活かされた。
- 1972年 - 母、死去。享年78。
- 1979年 - 4月、『幸福の絵』(新潮社)を刊行、女流文学賞を受賞。
- 1980年 - 一人娘の響子とともに、タイ、インド、エジプト、ギリシア、イタリア、イギリスへ23日間外国旅行。7月『奮闘旅行』、11月『娘と私のアホ旅行』を刊行。メス犬のチビを飼う。
- 1984年 - 迷いイヌのタロを飼う。
- 1988年 - 秋に響子がジュエリーデザイナー杉山弘幸と結婚。一人暮らしとなる。
- 1989年 - 7月から『血脈』(第1部)が別冊文芸春秋に連載開始。
- 1991年 - 孫、桃子が生まれる。
- 1994年 - 娘と一緒に住むために2世帯住宅を新築。
- 2014年 - 91歳で作家人生最後の作品と位置付けた長編小説『晩鐘』を刊行[12]。
人物編集
- 借金返済のためテレビ出演・全国講演を遂行して戦後の世相の乱れ等を厳しく批判するので父同様「憤怒の作家」と言われ「男性評論家」と呼ばれていた時期もある。小説のほかにも、身の回りの人物や事件をユーモラスに描いたエッセイを多数執筆。「娘と私」シリーズ等が知られている。
- 父である紅緑をルーツに、自身も含めハチローら異母兄弟および子孫たちに伝わる「佐藤家の荒ぶる血」を纏めた大河小説『血脈』を十数年かけて執筆し話題になる。
- 近年は自身の心霊体験に基づく著作も多い。
エピソード編集
受賞編集
著書編集
- 『愛子』(現代社、1959年)のち角川文庫
- 『おさげとニキビ』(秋元書房、1962年)のち文庫
- 『愉快なやつ』(秋元書房、1963年)のち文庫
- 『ソクラテスの妻』(光風社、1963年)のち中公文庫
- 『美人の転校生』(秋元書房、1964年)のち文庫
- 『加納大尉夫人』(光風社、1965年)のち角川文庫
- 『まんなか娘』(秋元書房、1965年)のち文庫
- 『花はくれない―小説・佐藤紅緑』(講談社、1967年)のち文庫
- 『微笑みのうしろに』(集英社・コバルト・ブックス、1968年)のち文庫
- 『さて男性諸君』(立風書房、1968年)のち角川文庫
- 『忙しいダンディ』(講談社、1969年)のち角川文庫
- 『鼓笛隊物語』(潮出版社、1969年)
- 『青春はいじわる』(集英社(コバルト・メイツ)、1969年)のち文庫
- 『女の庭』(光風社書店、1969年)
- 『戦いすんで日が暮れて』(講談社、1969年)のち文庫
- 『母について―詩集』(詩宴社、1969年)
- 『おしゃれ失格』(みゆき書房、1970年)
- 『ああ戦友』(文藝春秋、1970年)『束の間の夏の光よ』角川文庫、1980
- 『三十点の女房』(講談社、1970年)
- 『赤い夕日に照らされて』(講談社、1970年)
- 『その時がきた』(中央公論社、1971年)のち文庫
- 『愛子の小さな冒険』(文藝春秋、1971年)のち角川文庫
- 『ああ戦いの最中に』(講談社、1971年)「憤激の恋」角川文庫
- 『九回裏』(文藝春秋、1971年)のち角川文庫
- 『天気晴朗なれど』(読売新聞社、1971年)のち集英社文庫
- 『さよならのうしろに』(講談社、1971年)
- 『マッティと大ちゃん』(講談社、1971年)のち秋元文庫
- 『アメリカ座に雨が降る』(講談社、1972年)のち角川文庫
- 『鎮魂歌』(文藝春秋、1972年)のち集英社文庫
- 『愛子の風俗まんだら』(朝日新聞社、1972年)「愛子の獅子奮迅」集英社文庫
- 『破れかぶれの幸福』(白馬出版、1972年)
- 『躁鬱旅行』(光文社・カッパ・ノベルス)、1972年)のち角川文庫
- 『赤鼻のキリスト』(光文社・カッパ・ノベルス、1972年)のち集英社文庫
- 『或るつばくろの話』(講談社、1973年)のち角川文庫
- 『黄昏の七つボタン』(講談社、1973年)のち文庫
- 『忙しい奥さん』(読売新聞社、1973年)のち角川文庫
- 『愛子のおんな大学』(講談社、1973年)のち文庫
- 『豚は天国へ行く』(広済堂出版(Kosaido blue books)、1973年)
- 『私のなかの男たち』(講談社、1974年)のち文庫
- 『女優万里子』(文藝春秋、1974年)のち集英社文庫
- 『丸裸のおはなし』(大和書房、1974年)のち集英社文庫
- 『ぼた餅のあと』(番町書房、1974年)のち角川文庫
- 『困ったなア』(集英社・コバルト・ブックス、1974年)
- 『坊主の花かんざし』(読売新聞社、1975年)のち集英社文庫
- 『父母の教え給いし歌』(文藝春秋、1975年)のち集英社文庫
- 『女の鼻息男の吐息』(立風書房、1975年)
- 『あなない盛衰記』(光文社、1975年)のち集英社文庫
- 『ただいま初恋中』(秋元文庫、1975年)
- 『続・坊主の花かんざし』3,4まで(読売新聞社、1976年)のち集英社文庫
- 『黄昏夫人』(実業之日本社、1976年)のち角川文庫
- 『悲しき恋の物語』(毎日新聞社、1976年)のち角川文庫
- 『一番淋しい空』(読売新聞社、1976年)のち角川文庫
- 『朝雨女のうでまくり』(文化出版局、1976年)のち角川文庫
- 『女の学校』(毎日新聞社、1977年)のち集英社文庫
- 『好きになっちゃった』(集英社文庫 花)、1977年)
- 『雨が降らねば天気はよい』(集英社文庫コバルト、1977年)
- 『娘と私の部屋』(立風書房、1977年)のち集英社文庫
- 『こんな幸福もある』(海竜社、1977年)のち角川文庫
- 『男の学校』(毎日新聞社、1978年)のち集英社文庫
- 『一天にわかにかき曇り』(文化出版局、1978年)のち角川文庫
- 『娘と私の時間』(集英社、1978年)のち文庫
- 『幸福の絵』(新潮社、1979年)のち集英社文庫
- 『むつかしい世の中』(作品社、1980年)野地角川文庫
- 『枯れ木の枝ぶり』(文化出版局、1980年)のち角川文庫
- 『奮闘旅行』(光風社出版、1980年)「総統のセレナード」角川文庫
- 『娘と私のアホ旅行』(集英社、1980年)のち文庫
- 『女はおんな』(集英社、1981年)のち文庫
- 『愛子の百人斬り』(角川書店、1981年)
- 『こんないき方もある』(海竜社、1981年)のち角川文庫
- 『男友だちの部屋』(集英社、1981年)のち文庫
- 『愛子の日めくり総まくり』集英社文庫、1981
- 『愛子の新・女の格言』(角川書店、1982年)のち文庫
- 『娘と私の天中殺旅行』(集英社、1982年)のち文庫
- 『男はたいへん』(集英社、1982年)のち文庫
- 『こんな考え方もある』海竜社、1982 のち角川文庫
- 『躁病のバイキン』読売新聞社、1982 のち光文社文庫
- 『たいへんだア青春』集英社文庫 コバルトシリーズ 1982
- 『こちら2年A組』みつはしちかこ絵 秋元ジュニア文庫 1982
- 『女の怒り方 その習性その触覚その性癖』(青春出版社、1982年)のち集英社文庫
- 『花はいろいろ』(集英社、1983年)「花は六十」文庫
- 『男たちの肖像』(集英社、1983年)のち文庫
- 『日当りの椅子』文化出版局、1983 のち角川文庫、PHP文庫
- 『古川柳ひとりよがり』(読売新聞社、1984年)のち集英社文庫
- 『スニヨンの一生』(文藝春秋、1984年)のち文庫
- 『人生・男・女 愛子のつぶやき370』文化出版局、1984
- 『うらら町字ウララ』(新潮社、1984年)「ウララ町のうららかな日」文庫
- 『ミチルとチルチル』(中央公論社、1984年)のち文庫
- 『老兵は死なず』(読売新聞社、1985年)のち角川文庫、PHP文庫
- 『マドリッドの春の雨』(角川書店、1985年)のち文庫
- 『男と女のしあわせ関係』(青春出版社、1985年)のち集英社文庫
- 『バラの木にバラの花咲く』(集英社、1985年)のち文庫
- 『幸福という名の武器』(海竜社、1985年)のち集英社文庫
- 『幸福の終列車』光文社文庫、1985
- 『虹が…』(角川書店、1986年)のち文庫
- 『娘と私のただ今のご意見』(集英社、1986年)のち文庫
- 『ひとりぽっちの鳩ポッポ』(読売新聞社、1986年)のち集英社文庫
- 『夕やけ小やけでまだ日は暮れぬ』(実業之日本社、1987年)のち角川文庫
- 『こんな暮らし方もある』(海竜社、1987年)のち角川文庫
- 『今どきの娘ども』(集英社、1987年)のち文庫
- 『こんなふうに死にたい』新潮社、1987年)のち文庫
- 『耳の中の声』(中央公論社、1988年)のち文庫
- 『さんざんな男たち女たち 憤怒のぬかるみ』青春出版社、1988年)のち集英社文庫
- 『窓は茜色』(中央公論社、1988年)のち文庫
- 『夢かと思えば エッセイ集』(立風書房、1988年)
- 『凪の光景』(朝日新聞社、1988年)のち集英社文庫
- 『こんな女でなくっちゃ 好きになったら別れるまで』(青春出版社、1989年)「こんな女もいる」角川文庫
- 『淑女失格 私の履歴書』(日本経済新聞社、1990年)のち集英社文庫
- 『人生って何なんだ!』(中央公論社、1990年)のち集英社文庫
- 『こんな老い方もある』(海竜社、1990年)のち角川文庫
- 『ヴァージン』(実業之日本社、1991年)のち角川文庫
- 『マリアの恋』(中央公論社、1991年)
- 『何がおかしい』角川文庫、1991
- 『上機嫌の本』(PHP研究所、1992年)のち文庫
- 『神さまのお恵み』(PHP研究所、1992年)
- 『メッタ斬りの歌』集英社文庫、1992
- 『死ぬための生き方』(海竜社、1993年)のち集英社文庫
- 『自讃ユーモア短篇集』集英社 1993 のち文庫
- 『我が老後』(文藝春秋、1993年)のち文庫
- 『娘と私と娘のムスメ』(学習研究社、1994年)のち集英社文庫
- 『戦いやまず日は西に』(海竜社、1995年)のち集英社文庫
- 『なんでこうなるの 我が老後』(文藝春秋、1995年)のち文庫
- 『虹は消えた』(角川書店、1995年)のち文庫
- 『結構なファミリー』(日本放送出版協会、1996年)のち集英社文庫
- 『幸福の里』読売新聞社、1997年)「幸福のかたち」ハルキ文庫
- 『風の行方』(毎日新聞社、1997年)のち集英社文庫
- 『だからこうなるの 我が老後』(文藝春秋、1997年)のち文庫
- 『不運は面白い幸福は退屈だ 人間についての断章327』(海竜社、1999年)のち集英社文庫:編集者が以前の著書50冊以上から箴言らしき言葉を選んだ。年譜もある。
- 『そして、こうなった 我が老後』(文藝春秋、2000年)のち文庫
- 『老残のたしなみ 日々是上機嫌』(集英社、2000年)のち文庫
- 『不敵雑記 たしなみなし』(集英社、2001年)
- 『血脈』文藝春秋、2001 のち文庫
- 『犬たちへの詫び状』(PHP研究所、2001年)のち文春文庫
- 『私の遺言』(新潮社、2002年)のち文庫
- 『これが佐藤愛子だ 自讃ユーモアエッセイ集』全4巻 集英社 2002 のち文庫
- 『それからどうなる 我が老後』(文藝春秋、2004年)のち文庫
- 『冥途のお客』(光文社、2004年)のち文春文庫
- 『日本人の一大事』(海竜社、2004年)のち集英社文庫
- 『『血脈』と私』(文藝春秋、2005年)「佐藤家の人びと 「血脈」と私」文庫
- 『冥途のお客 夢か現か、現か夢か』(光文社、2005年)
- 『まだ生きている 我が老後』(文藝春秋、2006年)のち文庫
- 『今は昔のこんなこと』文春新書、2007 のち文庫
- 『老い力』海竜社、2007 のち文春文庫
- 『こんなことでよろしいか 老兵の進軍ラッパ』集英社 2008 のち文春文庫
- 『わが孫育て』文藝春秋 2008 のち文庫
- 『院長の恋』(2009年、文藝春秋)のち文庫
- 『女の背ぼね』海竜社 2009 のち文春文庫
- 『樂天道』海竜社 2009 のち文春文庫
- 『老兵の消燈ラッパ』文藝春秋 2010 のち文庫
- 『お徳用 愛子の詰め合わせ』(文藝春秋、2011年)のち文庫 2013
- 『これでおしまい 我が老後』文藝春秋 2011 のち文庫
- 『ああ面白かったと言って死にたい 佐藤愛子の箴言集』海竜社 2012
- 『かくて老兵は消えてゆく』文藝春秋 2013
- 『幸福とは何ぞや 佐藤愛子の箴言』海竜社 2013
- 『晩鐘』(2014年、文藝春秋)(モデル:田畑麦彦)
- 『佐藤愛子の箴言集2 そもそもこの世を生きるとは』海竜社 2014
- 『九十歳。何がめでたい』(2016年、小学館)
- 『それでもこの世は悪くなかった』(2017年、文藝春秋)
- 『人生は美しいことだけ憶えていればいい』(2019年、PHP研究所)
- 『気がつけば、終着駅』(2019年、中央公論新社)
共著編編集
テレビ番組編集
交友関係編集
脚注編集
- ^ 「九十歳。何がめでたい」2016年、小学館、37頁。
- ^ 佐藤[1999:268]
- ^ 佐藤愛子「淡路島」(『文藝春秋』2007年5月号)
- ^ 佐藤[1999:269]
- ^ a b 北杜夫『マンボウ談話室』p.115(講談社、1977年)
- ^ 佐藤[1999:269]ここには別の市が書かれているが間違いである
- ^ 佐藤[1999:269]
- ^ 佐藤[1999:270]
- ^ 佐藤[1999:28]
- ^ 佐藤[1999:271]
- ^ 佐藤[2011:愛子の詰め合わせ 205]
- ^ a b “91歳・佐藤愛子さん「晩鐘」、紫式部文学賞に”. YOMIURI ONLINE. (2015年8月3日) 2015年8月6日閲覧。
- ^ 佐藤愛子著『私の遺言』
- ^ 佐藤愛子『マドリッドの春の雨』
- ^ 吉行淳之介『新面白半分対談』p.40-41(講談社、1975年)