佐藤 有香さとう ゆかYuka Sato Dungjen1973年2月14日 - )は、東京都出身の元フィギュアスケート(女子シングル)選手、プロフィギュアスケーター、フィギュアスケートコーチ 兼 振付師。父は佐藤信夫、母は佐藤久美子1992年アルベールビルオリンピック7位入賞、1994年リレハンメルオリンピック5位入賞、1994年世界選手権優勝、1993年・1994年全日本選手権優勝など。

佐藤 有香
Yuka SATO DUNGJEN
フィギュアスケート選手
2011年の佐藤有香
生誕 (1973-02-14) 1973年2月14日(51歳)
東京都
親族 佐藤信夫 (父)
佐藤久美子 (母)
身長 152 cm
出身校 戸板女子高等学校法政大学
選手情報
代表国 日本の旗 日本
練習拠点 Detroit Skating Club
引退 1994年
獲得メダル
フィギュアスケート
国際スケート連盟主催大会 1 2 3
世界選手権 1 0 0
世界ジュニア選手権 1 0 0
合計数 2 0 0
国内大会 1 2 3
全日本選手権 2 2 2
世界選手権
1994 千葉 女子シングル
世界ジュニア選手権
1990 コロラドスプリングス 女子シングル

学歴 編集

戸板女子高等学校から法政大学法学部に進学したが中退。法政大学通信教育部法学部へ再入学し卒業。

経歴 編集

父・信夫は1960年スコーバレーオリンピック1964年インスブルックオリンピックの男子シングル日本代表、母・久美子もインスブルックオリンピックと1968年グルノーブルオリンピック女子シングル日本代表というスケート一家に生まれた[1]。2歳半でスケートを始め、10歳の頃から父の信夫の指導を受け始める。それまでは他の生徒への指導が忙しかったため、1週間に5分間だけ新しい技を伝授する時間を作り、それを娘が1週間かけてマスターし、また新しい技を伝授して…という方法を繰り返していたという。その後「私にもきちんと教えて」と言い出したことから本格的に指導を受けるようになった[2]

1988-1989年シーズンの全日本ジュニア選手権で優勝。翌1989-1990年シーズンの世界ジュニア選手権では日本人選手として初優勝。同シーズンにはシニアの世界フィギュアスケート選手権にも初出場し、14位。しかし翌1990-1991年シーズンは不調で代表入りを逃す。

1991-1992年シーズンの全日本選手権で2位となり、優勝した伊藤みどりと共にアルベールビル五輪・女子シングルの初の日本代表入りを果たす。同五輪ではオリジナルプログラムフリースケーティングで共に7位となり、総合で7位入賞。2年ぶりの出場となった1992年世界選手権では8位。翌1992-1993年シーズンの全日本選手権で初優勝。1993年世界選手権では4位入賞を果たし、翌1994年に行われる1994年リレハンメルオリンピックの日本女子シングル代表「2枠」を確保した。

1993-1994年シーズンの全日本選手権で2年連続の優勝を果たし、2位となった井上怜奈と共にリレハンメル五輪・女子シングルの二大会連続オリンピック日本代表入りとなる。同五輪のテクニカルプログラムでは、トリプルルッツからのコンビネーションジャンプの予定がシングルルッツとなり失敗、7位と出遅れる。フリースケーティングではほぼノーミスの演技をこなし、五輪メダルは惜しくも届かなかったが総合で5位入賞。アルベールビルオリンピックに続き、冬季五輪で2大会連続入賞を果たした(他女子シングル日本代表では伊藤みどり(5位・銀メダル)に次ぐ二人目の快挙である)。

オリンピック後の1994年3月に千葉県幕張メッセで行われた世界選手権では、リレハンメルオリンピック金メダリストのオクサナ・バイウルと銀メダリストのナンシー・ケリガンが欠場し、銅メダリストの陳露が予選後に棄権したため、同オリンピック4位のスルヤ・ボナリーと同5位の佐藤との一騎討ちの展開となった。予選、ショートプログラムで佐藤が1位、ボナリーが2位。フリースケーティングでは先に滑走したボナリーが、計7つのトリプルジャンプに挑戦し、トリプルルッツでは両足着氷、トリプルループでは手を付くミスがあったものの、コンビネーションジャンプを3つ成功させた。一方の佐藤は、トリプルトウループがダブルトウループになるミスはあったものの、計6つのトリプルジャンプを成功させ、コンビネーションジャンプも2つ成功させた。技術点ではボナリー、芸術点では佐藤とジャッジ9人の票も割れたが、最終的に4対5で佐藤が日本人選手として2人目の世界女王となった。

世界選手権後にプロスケーターに転向し、北米に拠点を移す。スターズ・オン・アイスチャンピオンズ・オン・アイスなどのアイスショーに多数出演。世界プロフィギュア選手権ではクリスティー・ヤマグチと優勝争いを演じたことで一躍注目を集め、のちに夫となるジェイソン・ダンジェンとペアを組みペアスケーターとしても活動。世界プロフィギュア選手権で4度優勝している。1999年にダンジェンと結婚。

コーチ 兼 振付師としても活動しており、デトロイトスケートクラブを拠点にアリッサ・シズニーやジェレミー・アボットの指導をしていた。1998年からは日本人選手の指導も行う。

1998-1999年シーズンは荒川静香の振付も担当。その後小塚崇彦三原舞依鈴木潤 の振付を行っている。

1998年長野オリンピック2002年ソルトレークシティオリンピック2006年トリノオリンピックで解説を担当。NHK杯などの放送でも解説も行っている。

2013年にダンジェンと離婚。コーチとしての仕事は共に続けていく[3]

2022年10月開催の Stars On Ice八戸公演(Stars On Ice JAPAN TOUR 2022 Autumn)を以て、プロスケーター生活に終止符を打つと発表した[4]。プロ活動終了後は、振付や演出のほか、アイスショーを作っていきたいということが夢であり目標だと語っている。[5]

主な戦績 編集

アマ競技歴 編集

大会/年 1987-1988 1988-1989 1989-1990 1990-1991 1991-1992 1992-1993 1993-1994
オリンピック 7 5
世界選手権 14 8 4 1
全日本選手権 3 3 2 4 2 1 1
スケートアメリカ 1
ネイションズ杯 5
NHK杯 5 3 2 3
プラハスケート 1
ピルエッテン 6
世界Jr.選手権 10 1
全日本Jr.選手権 1 1

プロ競技歴 編集

  • 1995年 世界プロフィギュア選手権 優勝
  • 1996年 世界プロフィギュア選手権 2位
  • 1998年 世界プロフィギュア選手権 2位
  • 2000年 世界プロフィギュア選手権 優勝
  • 2001年 スケーターズ・チャンピオンシップ 優勝
  • 2002年 スケーターズ・チャンピオンシップ 優勝
  • 2003年 スケーターズ・チャンピオンシップ 優勝
    • 世界プロフィギュア選手権は2001年よりプロアマ混合のスケーターズ・チャンピオンシップに改めた。

エピソード 編集

  • ビデオデッキの操作が出来るようになった頃、TBSのスタッフから貰った1977年の世界フィギュアスケート選手権の模様が収録されたテープを何度も繰り返し見ていたという。一流選手の演技を幼少から観ていたことが、彼女のスケーティングの下地になったのではと父である信夫は回想している[要出典]
  • トーニャ・ハーディングの半生を描いた2017年の映画「アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル」内のアルベールビル五輪の場面で、結果を伝えるアナウンサーが佐藤の名前を呼んでいるのが確認できる[要検証]

脚注 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集