何 佩瑢(か はいよう)は、中華民国の軍人・政治家。北京政府安徽派の軍人で、後に中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人となった。韻珊

何佩瑢
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1880年光緒6年)[1]
死去: 1942年民国31年)6月6日[2]
中華民国漢口特別市
出身地: 湖北省施南府建始県
職業: 政治家・軍人
各種表記
繁体字 何佩瑢
簡体字 何佩瑢
拼音 Hé Pèiróng
ラテン字 Ho Pei-jung
和名表記: か はいよう
発音転記: ホー ペイロン
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事績 編集

 
何佩瑢別影
Who's Who in China 3rd ed.(1925)

北京政府時代の活動 編集

1906年光緒34年)、日本に留学して陸軍士官学校第4期歩兵科を卒業した。帰国後は、保定陸軍軍官学校教官などをつとめている。中華民国成立後の1912年民国元年)、陸軍第2師参謀長となる。北京政府では安徽派に属した。1917年(民国6年)2月、湖北省政務庁庁長となり、翌年8月、財政庁庁長も兼任した。

1919年(民国8年)3月、署理湖北省省長となり、11月、正式に省長に就任している。翌年8月、安直戦争で安徽派が敗北したため、省長から罷免された。まもなく湖北督軍公署参議兼湖北鉱務局督弁に異動し、孫伝芳の最高顧問となっている[3][4][5][6]

親日政権での活動 編集

国民政府時代は主な職位にはつかず、1937年(民国26年)の日中戦争(抗日戦争)勃発後に、何佩瑢は中華民国維新政府の下で武漢参議府参議長兼政務委員会委員長となった。1938年(民国27年)10月、武漢が日本軍により陥落させられると、何佩瑢は武漢地方維持会会長となる。翌年4月、中華民国維新政府において武漢市参議府議長となり、11月、湖北省省長に任ぜられた[3][4][5][6]

1940年(民国29年)3月、汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府設立後も、何佩瑢は湖北省省長に留まっている。5月、何佩瑢と石星川漢口で共和党を結成し、何佩瑢が総裁、石星川が副総裁となった。同党は、湖北人による湖北統治(「鄂人治鄂」)を目指して結成された地方政党である。

10月、湖北省政府の改組に伴い、湖北省政府主席となった。12月、何佩瑢は共和党を解散して、汪兆銘の中国国民党に合流し中央執行委員に任命された[5]。翌年5月、東亜聯盟中国総会湖北分会常務理事兼書記長となった。6月、湖北保安司令を兼任している[3][4]

1942年(民国31年)6月6日、何佩瑢は漢口で死去した。享年63。中国・台湾における通説では、何佩瑢は日本軍により毒殺されたとしているが[7]、死因は他にも諸説あり実態は不明である[8]

脚注 編集

  1. ^ 徐主編(2007)、670頁; 尾崎監修(1940)、79頁; 東亜問題調査会編(1941)、34頁; 鄭のいずれも、この出生年としている。
  2. ^ 徐主編(2007)、670頁と鄭による。劉ほか編(1995)、1120頁は、6月7日死去、としている。
  3. ^ a b c 徐主編(2007)、670頁。
  4. ^ a b c 鄭。
  5. ^ a b c 東亜問題調査会編(1941)、34頁。
  6. ^ a b 尾崎監修(1940)、79頁。
  7. ^ 徐主編(2007)、670頁と鄭による。
  8. ^ 鄭は、この他に通常の病死、急病死、妾による毒殺の3つの異説があることに言及している。

参考文献 編集

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 鄭仁佳「何佩瑢小伝」『伝記文学』ホームページ(台湾, 繁体字中国語)
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
   中華民国維新政府
先代
(創設)
湖北省長
1939年11月 - 1940年3月
次代
(汪兆銘政権に継続)
   南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(維新政府から継続)
湖北省長
1940年3月 - 10月
次代
(湖北省政府主席に改組)
先代
(湖北省長から改組)
湖北省政府主席
1940年10月 - 1942年6月
次代
楊揆一