余市郡

日本の北海道(後志国)の郡

余市郡(よいちぐん)は、北海道後志国後志総合振興局

北海道余市郡の位置(1.仁木町 2.余市町 3.赤井川村)

人口21,558人、面積588.67km²、人口密度36.6人/km²。(2024年2月29日、住民基本台帳人口)

以下の2町1村を含む。

郡域 編集

1879年明治12年)に行政区画として発足して以来、郡域は上記2町1村のまま変更されていない。

歴史 編集

郡発足までの沿革 編集

飛鳥時代阿倍比羅夫が国家の出先機関「政所」や「郡領」を置いた「後方羊蹄(しりべし)」(『日本書紀』)は余市郡であるとの説[1]がある。また、奈良時代以前の余市郡域は朝廷によって道外と蝦夷(えみし)の交易の拠点が置かれたとみられ、後世、余市川河口右岸にある大川遺跡から、7世紀大刀や奈良時代の朝廷の役人が身に着けた帯金具のほか漢字を記した土器なども出土している(参考:奄美群島の歴史#古代も参照)。

室町時代に勃発したコシャマインの戦いの際、後志国域でも余市以西で和人(本州からの移民、瀬川拓郎の説によると後に渡党を自称)と蝦夷(金田一京助の説に従えば、唐子えぞアイヌに相当)との戦闘が繰り広げられた。

江戸時代、余市郡域は和人地となる。松前藩によってヨイチ場所が開かれており、交易の拠点や藩の出先機関として旧下ヨイチ運上家などの運上屋が建てられ住民の撫育政策であるオムシャも行われた。また漁場(旧余市福原漁場など)も開かれていた。漁場の状況については北海道におけるニシン漁史も参照されたい。

陸上交通は複数の道が開削されており、渡島国から天塩国増毛郡への道のりの途上であったため、文化年間に岩内郡と余市郡を結ぶ余市山道(国道276号国道5号稲穂峠の前身)が開削され道中の宿場として笹小屋なども設けられた。このほか、余市場所請負人竹屋長左衛門は余市から古平境界までの2里(7.9km)余の道を開削。この他にも道が開かれている[2]。海上交通は余市に寄航する北前船の航路も開かれていた。

江戸時代初期寛文9年6月に日高国域を中心におこったシャクシャインの蜂起が平定された後、余市でも蝦夷の松前藩に対する恭順の確認が行われた。安永2年山碓稲荷を創祀。

江戸時代後期享和3年、間宮林蔵が西蝦夷地沿岸の測量を行った。文化4年に余市郡域は公議御料(幕府直轄領)とされたが、文政4年には松前藩領に復した。文政10年には稲荷神社が創建、これは後世、山碓稲荷の合祀を経て余市神社となっている。松浦武四郎弘化3年のほか、安政3年と同4年にも向山源太夫に同行し余市に立ち寄っている。安政2年余市郡域は上知令により再び公議御料となり庄内藩が警固をおこなっていた。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して余市郡が置かれた。

郡発足以降の沿革 編集

 
北海道一・二級町村制施行時の余市郡の町村(4.余市町 5.大江村 6.赤井川村 青:区域が発足時と同じ町村)
明治9年の大区小区
  • 第4大区
    • 3小区 : 黒川村、山田村、畚部村
    • 4小区 : 浜中村、川村
    • 5小区 : 沢町、富沢町、山道村
    • 6小区 : 山臼村、沖村

脚注 編集

  1. ^ 地方史研究所編「余市」に瀧川政次郎「後方羊蹄」=余市説
  2. ^ 『北海道道路誌』北海道庁 大正14年(1925年)6月10日出版

参考文献 編集

外部リンク 編集

関連項目 編集