依田氏
依田氏(よだし)は、日本の氏族。『尊卑分脈』によると清和源氏(多田源氏)満快流(源満仲の弟)。依田[1][注釈 2]は信濃国小県郡依田荘に由来する[注釈 3]。
依田氏 | |
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本姓 | 清和源氏満快流 |
家祖 | 依田為実 |
種別 | 武家 |
出身地 | 信濃国小県郡依田荘 |
主な根拠地 | 信濃国 ほか |
著名な人物 |
依田実信 依田信蕃 依田康国 |
支流、分家 |
芦田氏(武家) 相木氏(武家) 平尾氏 諏訪氏[注釈 1] |
凡例 / Category:日本の氏族 |
出自編集
源満快の曾孫・源為公が信濃に下向し、信濃守となり、現在の長野県上伊那郡箕輪町上ノ平に居館を構え、主に南信濃に広がる信濃源氏の祖となった。依田氏の祖は為公の六男「依田六郎為実とされ、東信濃の小県郡に依田城を築いて本拠地とした。
朝廷や幕府に認められていない系図ではあるが、源経基の嫡男、源満仲流とする家系が存在する[2]。その説によれば[注釈 4]」、満仲の次男、源頼親直系の親治が大和の宇野に住しており、その子の有氏が信濃に下向し、小県依田に築城して依田を称した。頼親の弟、頼信は、新田氏、足利氏、武田氏等の祖となった。
概要編集
為実の子・依田次郎実信は治承4年(1180年)源義仲に依田城[注釈 5]を明け渡し、義仲は依田城にて挙兵する。依田氏も他の信濃武士と共に源義仲軍に加わり上洛する[注釈 6][3]。倶利伽羅峠の戦いでは、10万余騎を率いた平氏を討つために、義仲は5万騎を七手に分けて臨んだ。源平盛衰記においては、7軍の大将のうち、信濃小県から従軍したとされる「宇野彌平四郎行平」「余田次郎」「円子小中太」が記されており、それぞれ「海野彌平四郎行平」「依田次郎」「丸子小中太」を指している[4]。義仲は、後白河法皇の庇護を巡り、源頼朝、源義経と対峙、寿永3年(1184年)、近江国粟津で討ち死にする。これに伴い、依田氏は依田庄を失い一族は各地に散ったとされ[5]、一部は近隣の飯沼の地に残留して飯沼氏と称した。依田氏と義仲については、初代の依田為実の母が源義賢(義仲の父)の娘だった縁とされる[6]。
鎌倉時代の依田氏については、詳細が不明なままとなっているが、南北朝初期(1330年)頃、飛騨国の依田義胤が依田庄を奪回したとする説[7]がある一方で、得宗家の家臣として勢力を回復したとする説もある。得宗被官化を唱える説では、正安2年(1300年)に、得宗被官あるいは御内人であった大蔵宣時と同等の扱いで、依田五郎左衛門行盛が、鎌倉幕府執権の遣いとなって九州へ出向した史実に重きを置く[8]。得宗被官化の端緒となったのは、依田資行が承久の乱において幕府側にくみした史実が考えられる[9]。得宗被官(御内人)の威光によって、3代将軍・源実朝から地頭に任命された茂木氏の本領安堵とされていた依田庄が再び依田氏の支配下に戻った[10]。行盛の弟、朝行は官名・中務丞を授かり、鎌倉幕府の奉行衆・評定衆を務めた[11]。
南北朝時代から室町時代にかけて、依田氏から幕府評定衆・奉行衆・奉公衆に少なくとも9人が就いている[12]。足利尊氏の代においては、依田中務大夫入道元義(幕府奉行)、座衛門尉貞行(幕府奉行)、足利義詮・足利義満の代には、左近大夫時朝(評定衆)[13][注釈 7]、足利義持の代には、座衛門大夫秀□(幕府奉行)が就いており、その後は、中務丞秀朝(幕府奉行)、中務丞光朝(幕府奉行)と続く。奉公衆には、依田九郎、依田孫九郎が就いている[14][注釈 8]。幕府の要職に命ぜられるのは建武2年(1335年)から文明年間まで続き、依田氏は在府と在地に分かれる事になる[15]。応永9年(1402年)、室町幕府は信濃国を幕府料国と定めて、幕府奉行人の依田左衛門大夫季□ほか1名を代官として下向させた[16]。
室町時代前後から、在地の依田氏は、佐久郡に進出していく。「日本書紀」の「天武紀」には、「天武十三年二月二十八日、三野王、小錦下采女臣筑羅等を信濃に遣して、地形を看しめたまふ。是の地に都のつくらむとするか」「天武十四年十月十日、軽部朝臣足瀬、高田首新家、荒田尾連麻呂を信濃に遣わして、行宮を造らしむ」とあり、天武天皇が信濃への遷都を画していたことを表す。天武天皇の遷都については、佐久郡を候補地とする説もある[17]。依田氏は、佐久郡の平原などに進出し、平尾氏、平原氏等を名乗った[注釈 9]。信濃守護・小笠原氏の分流である、大井氏に従臣した影響によるところが大きい。鎌倉公方足利持氏の遺児である永寿王丸を扶育し、成年した永寿王丸が鎌倉公方足利成氏として鎌倉府を復興させる[18]など、大井氏は名門としての責を担った。その大井氏が佐久を所領していたたことから、従臣した依田氏は佐久郡に進出した。ただし、依田氏の佐久郡・芦田への進出を巡り、大井氏に従臣した時期における論争がある。在地の依田氏が大井氏に恭順したのは、永享8年(1436年)に小笠原氏・大井氏との戦いに敗れた後とする解釈がある。その一方で、幕府8代将軍・足利義政が発した、御教書を以って、依田氏の芦田進出の時期を判断する立場もある[19]。足利義政の記したところの「芦田下野守」は、依田氏の同時期の系図・系譜には存在しない[20]。[注釈 10]、永享元年(1429年)には、鎌倉時代より続く大井法華堂の先達職に依田氏が就任していた[21]、等の史実に裏付けられたうえで、信濃守護小笠原氏・大井氏の陣営にあった、依田右衛門尉経光が永享8年(1436年)に芦田に進出して芦田氏を名乗った[注釈 11]とする。これによれば、依田氏は、在府での地位を賭するような、足利義政の不興を買う振る舞いはせずに、大井氏との関係を良好に保っていた。足利義政の命を受けて[22]、信濃守護小笠原氏・大井氏陣営が戦ったのは、滋野氏の流れを汲む、芦田氏、海野氏、根津氏であった[23][注釈 12]。
依田庄から芦田郷に入部した依田右衛門経光の子、備前守光徳から芦田姓を称するようになった[24]。その子右衛門太夫光玄には二子があり、前妻との間の子どもである長子の左衛門太夫孝玄のほか、後妻との間に第二子の義玄がいた。後妻は、わが子義玄の家督相続を企て、孝玄を御嶽堂城に移したうえで、乳母と家臣の布施、小平両氏の手で、文明9年(1477年)に謀殺した[25]。芦田城内における相次ぐ事件を受け[26][注釈 13]。義玄は、孝玄の霊を供養するため、芦田、御嶽堂2つの領内に依田大明神を建立したうえで[27][注釈 14]、剃髪し仏門に入り玄栄済と称した[28]。
義玄が没した天文6年(1537年)に、家督を相続した長子、信守は10歳に満たない幼少の身だった[29]。天文10年(1541年)5月、武田信虎は諏訪頼重とともに小県に入り、海野平に祢津、海野を討ち真田氏を追った[30][注釈 15]>。武田信虎は大軍を率いて佐久郡に侵入し、土豪や武将を降伏させた。諏訪頼重は帰途、芦田城を攻略し、幼少の信守を諏訪に連れ去ったうえで臣従させた[31]。翌年の天文11年(1542年)、諏訪頼重は、信虎を退けた武田晴信によって滅ぼされた。
信守は、天文18年(1549年)、居城を芦田城から春日城に移し、永禄3年(1560年)に武田氏へ正式に臣従した[32]。武田氏は、佐久郡平定後に東北信濃を制圧し、さらに西上野に進出した。武田信玄は、永禄9年(1566年)、北条氏に備えるために、武蔵国堺にある上野国の浄法寺を芦田信守に与え周辺を知行地とした[33]。「武田三代軍記」等[34][注釈 16]が示す通り、下野守信守は、武田氏の有力な信濃先方衆[35][注釈 17]となった。武田氏は、躑躅ヶ崎館の周辺に有力な國人(土豪)を屋敷地を与えて住まわせており[36][注釈 18]、下野守信守も屋敷を構えていた[37][注釈 19]。その他の依田流の武家では、相木(依田)市兵衛も屋敷を与えられていた[38]。
2万5千の兵を率いた武田信玄は元亀3年(1572年)、信州経由で徳川家康所領の遠江へ攻め込んだ。武田信玄の別働隊は、美濃に侵入し、織田信長方の要衝である岩村城に迫った[39]。別働隊の将であった秋山信友は、城将遠山景任を退けた後、景任の未亡人を妻にした。未亡人は信長の叔母であったため、これを聞いた信長は激昂し、1万の兵を率いて出陣した[40]。うち5千を岩村城奪還のために向かわしたが、将である遠山景行は、700の寡勢の芦田信守・芦田信蕃親子の前に破れた。芦田親子は景行の首級を上げた[41]。
信守の子・信蕃の代に武田氏が滅亡、当時駿河国の田中城に居た信蕃は城を明け渡し、徳川氏の庇護下に身を寄せる。本能寺の変により信濃の織田勢力が瓦解し、旧武田領が徳川・北条・上杉の争奪地となると(天正壬午の乱)、信蕃は当初は後北条氏に属し、その後徳川氏に属して佐久地方で活躍。当初北条方であった真田昌幸を徳川方に寝返らせる等の功績で、佐久・諏訪の二郡を与えられ小諸城代となる。しかし、佐久で唯一残った北条方の岩村田大井氏が立て篭もる岩尾城攻めで、弟・信幸と共に戦死を遂げる。
徳川家康は、天正11年(1583年)に信蕃の嫡男・竹福丸を浜松城に呼び、松平姓を授けると共に、諱である「康」の一字を与え、松平源十郎康國と名乗らせた。重臣である大久保七郎右衛門忠世を、14歳であった康國の後見役とした。このため、康國以降を依田松平氏と称する場合がある[42]。大久保忠世の後見を得た康國は、最後に残った北条氏方の小諸城代、大道寺政繁を攻略し退けた。佐久地方は平定し、家康は、松平康國(依田康国)を小諸城主とした。康國は、佐久の本領6万石に加え、駿河2万石、甲斐国2万石の合わせて10万石の大名となった[43]。家康は、康國の常備軍として依田肥前守に47騎、足軽200人を付し稲荷山城に置いた[44]。康国は天正13年(1585年)の第一次上田合戦で初陣を果たすと、丸子城攻略に手柄あった。康國は大久保忠世またはその代理である弟の彦左衛門忠教の後見を受けていたが、天正14年(1586年)に徳川氏と真田氏の和睦が成立すると大久保氏は佐久から退き、康國は徳川氏傘下の国衆として佐久郡に一円支配を確立した[45]。天正18年(1590年)には、相木白岩に挙兵した、依田能登・伴野刈部を破り、伴野刈部の首級を取った。討ち取った騎馬数は380に達した。家康の命により小田原征伐で上野国に出陣し、西牧城を陥す。総大将であった豊臣秀吉は徳川家康宛の書状で、康國の働きによって信濃衆を討ち取った事を讃え、家康からも言葉を掛けるようにと記している[46]。同年、康國は石倉城で戦死を遂げる。
康国の死後は弟・康真が家督を相続し、徳川家の関東移封に伴って武蔵国榛沢郡と上野緑野郡に3万石を与えられ、藤岡城主となる。それに先立つ天正14年(1586年)、徳川家康自ら福千代丸(康真)の髪を整え、松平姓、諱の「康」、腰物、髪道具等を下賜し元服させた[47]。豊臣秀吉は、康真に豊臣姓を与えている[48]。しかし関ヶ原の戦いを控えた慶長5年(1600年)1月23日、大坂の旅宿で囲碁をしていた際、同僚の小栗三助なる者を喧嘩口論の末に殺害してしまう。これが原因で高野山に蟄居し藤岡藩3万石は改易。徳川家康の次男・結城秀康の許にお預けとなる。結城秀康は越前福井へ封じられ松平秀康となった[49]。康真は松平秀康に仕える事になる。この頃、秀康は家康の命により上杉景勝と対陣しており、下野国宇都宮において康真を召し出したという[50]。依田康真は松平姓をはばかり、母方の加藤姓を名乗り、加藤康寛と改名し、越前国木本5000石を与えられた[51]。子孫は芦田姓を名乗った[52]。福井藩内での家格は、筆頭家老の越前府中本多家に次ぐ、十六家を示す上位の「高知席」だった[注釈 20]。また、康真自身は終生、依田姓で通していたとも伝わる[要出典]。元和9年(1623年)に死去したと言われるが、没年には異説もある[要出典]。
佐久市八幡の依田家編集
佐久市八幡(旧南御牧浅科村)の依田氏は、長野県屈指の地主であり、農地解放が実施されるまで長野県の高額納税者1位の常連であった。八幡の依田氏は、仙右衛門を通称として、遠祖は小諸城主依田氏の庶子の一人であった。小諸城主依田氏が、上州藤岡城主となった際、これに随従せず土着帰農した。元禄15年(1702年)から維新まで小諸城主となった牧野氏から馬上を許され奏者格の格式が与えられた。また依田氏の邸宅にたびたび藩主・牧野氏が立ち寄った(小諸領内旧家録等)。依田仙右衛門家の江戸時代を通じての文書約1万点は、現在早稲田大学図書館に「依田家文書」として保管されている。依田専左衛門家は、専右衛門家の分家である。藩主の国替えに随従しない事を例としていた小諸藩の御城番組の番士(卒族)にも、依田姓が散見される。
芦田姓の武家編集
東信で芦田を名乗った武将は、滋野氏系と依田氏系に分かれる。
滋野氏系の芦田氏は鎌倉時代から佐久郡芦田に館を構えており、その系譜は、滋野滋氏王ー蔵人敦重ー又三郎為重ー法師僧光ー盛弘ー芦田七郎盛忠ー備前守朝ー下野守氏久となる[53][54][注釈 21]。
永享元年(1429年)、室町幕府六代将軍に足利義政が就任すると、鎌倉公方足利持氏はこれに反発し、関東管領の上杉憲具の諌めにも耳を貸さずに、幕府に対する決戦に備えるため、鎌倉に味方する東国武将に下知状をもって出兵を促した。滋野系芦田氏の下野守もこれに呼応し、関東出兵のため小県郡芝生田まで兵を進めた[55]。これに対抗したのが、信濃守護小笠原政康の祖からの分流である、大井越前守持光だった。この噂を耳にした将軍足利義政は、御教書を発した[56]。
「大井越前守と芦田下野守不快の事、然るべからざる候。早々和睦すべきの旨仰せ出され候。よって東国の面々御教書なされ候おわんぬ。若し尚事行かずんば、美濃・越後の御勢差し遣わさるべきの由、沙汰申すべく候の段堅く仰せ含められるべく候以上 二月十七日 永享七年 小笠原殿 足利義政] 花押」
滋野系芦田氏は、将軍義政の調停案を一蹴し[注釈 22]、芝生田氏の協力を得て、芝生田城、別府城の両城に立てこもり、幕府が後ろ盾となった、信濃守護小笠原政康、越後守護長尾邦景、大井持光の連合軍を迎え撃つ体制を取った。小笠原政康は、依田右衛門尉経光と、高井郡井上一族の米持次郎光遠をもって、滋野芦田氏を攻略し滅亡させた[57]。
依田右衛門尉経光の子、備前守光徳から芦田姓を称するようになり、信蕃の父下野守信守まで、嫡流だけが「芦田」、傍系は依田姓を名乗ったが、信蕃の代から依田姓を使用した[58][注釈 23]。
系譜編集
<平安時代中期 - 鎌倉時代中期> [59] ※ 太線は実子、細線は養子。
源満快 ┃ 満国 ┃ 為満 ┃ 為公 ┣━━━━━━━━━┓ 伊那為扶 依田為実 ┃ ┣━━━┓ 依田為実 実信 豊平 ┃ ┏━━━┻━━━┓ 実信 信行 行俊(飯沼太郎) ┃ ┃ 手塚氏/諏訪氏 資行(飯沼三郎) ┏━━━┫ 常遠 唯心 ┣━━━┓ 行盛 朝行
<戦国時代 - 織豊時代> (依田氏/芦田氏)
系未詳 ┃ 信常? ┃ 信守 ┣━━━┓ 信蕃 信幸 ┣━━━┳━━━┓ 康国 康勝 康寛
<戦国時代 - 織豊時代> (依田氏/相木氏)
系未詳 ┃ 相木昌朝(依田昌朝) ┃ 常林
脚注編集
注釈編集
- ^ 『尊卑分脈』清和源氏系図では信濃の名族諏訪氏の中世以降の系譜を依田氏に連ねるものともしている。なお同時期の諏訪氏をめぐる系譜は複数存在しており、その詳細は定かではない。
- ^ 平安時代初期に編纂された『続日本紀』における記録としては、まずスサノオに与えられた3つの土地の一つ「天川依田」が挙げられ、次に「土左国土左郡人神依田公名代等四十一人賜姓賀茂」が挙げられる。土佐国造であった神依田公(みわよりた)の神は三輪氏とされている。神依田公の出自を、大和・城上郡(奈良県)にあった式内社「宇太依田神社」の周辺にある(志賀剛「式内社の研究第二巻」)とする考察もあるが、この説について『奈良県史』では「明確し難い」と記されている。よだの「よ」にいかなる漢字を充てるかは各地によってさまざまな事情があり、「余」あるいは「与」が「依」に勝る地域もある。しかしながら、固有名詞においての「依」は皇統以前、すなわち神武天皇よりも前の時代の人物や国名に用いられている史実は特筆に値する。「依」が付く名前には、土佐国の支配神の建依別、新撰姓氏録に記されている神別の依羅連(饒速日命が始祖)、神武天皇の母とされる玉依姫命など。建依別(土佐の国)、飯依彦(讃岐の国)、天之狭手依比売(津島)、そして佐依志野彦(科野の国=信・飛・美)などが挙げられる。信濃史源考には「日本はもと三十三か国なりしを人皇の代に六十六か国に分てり(源平盛衰記・丹波少将の章)。此の三十三か国の解釈を試みし人ありしも、概して不明瞭なりと為し来れり。古事記に其の一部分を記示せり(日本紀は之を明示せず)」と記されている。
- ^ 『吾妻鏡』の「乃貢未済の庄々注文」の中に依田庄が記載されている。依田庄の成立時期は不明であるが、前斎院御領として記されているのは鎌倉時代である。
- ^ 神武天皇系の他田氏の好行が為実の猶子に迎えられたとする説もある。太田亮氏の「姓氏家系大辞典」によれば、信濃国造金刺氏の末裔とされる。上記の満仲流を採用し六孫王経基の後胤とする説、橘諸兄の後胤とする説などもあり、さまざまな系図がある。こうしたことから、系図・系譜に関しては、諸々の混乱を避けるため、私家版・家系図学者作の系図・系譜は本稿では採用せず、日本国政府・朝廷の公文書によるものに限定したい。
- ^ 平家物語によれば「木曽は依田城に有りけるが云々」と記されている。
- ^ 平家物語や源平盛衰記などによれば、余田次郎が従臣したとあり、上田市誌は余田次郎を依田次郎と解している
- ^ 群書類従所収「御評定着座次第」によれば、永和4年(1378年)に開かれた「御評定」においては、正面の御座には将軍足利義満が座し、将軍の右手の側には、管領細川武蔵守頼之、中原掃部頭能直、町野刑部少輔長康、左手側には京極高秀、二階堂中務少輔行照、依田左近大夫入道元信(時朝)が座っていたとしている。義満以外の6人をもって評定衆と呼ばれる。事務方である御硯、奉事、孔子の3人が下方に控えており、この御評定では、孔子の席に諏訪神左衛門尉がついていた。
- ^ 信濃に領地があった武家で評定衆となったのは依田氏のみとする旨を指摘するのは、「丸子町誌」(1992)、「佐久市志」(1993)、「上田市誌」(2001)である。その一方で、それに遡る1987年に編纂された、「長野県史」(通史編 第三巻 中世二)においては、室町幕府の評定衆、幕府奉行として活躍した信濃武士として、まず第一に諏訪氏を挙げている。その論拠の出典は、諏訪氏の作による「神氏系図」となっている。
- ^ 大井氏が支配する佐久郡に進出できたのは、幕府奉行人として信濃に下向した、依田左衛門大夫季□の中央工作とする説がある。この説によれば、依田氏は、この流れに乗り芦田郷に進出し芦田を称したという。仮に芦田下野守が依田氏であったとするならば、後述する第8代将軍足利義政の命により芦田下野守が討伐された暁には、依田氏の在京、在府いずれの地位をも失した可能性は高い
- ^ 「日本姓氏家系大辞典」によれば、滋野滋氏王ー蔵人淳重ー又三郎為重ー法師僧光ー盛弘ー芦田七郎盛忠ー備前守朝守ー下野守氏久とある。
- ^ 市川武治(1993)P7には、高井郡井上一族米持次郎光遠と共に、芦田氏を滅ぼし、依田氏が芦田に入部して芦田を名乗るようになったとある。「北佐久郡誌」にも同様の記述がある。また、武田光弘(1975年)P102では、「(依田)経光の時代に佐久郡芦田村に移住した」事実を記している。
- ^ 武田光弘(1975年)P36、市川武治(1993)P9によれば、いずれもが滋野氏の家系となる。
- ^ 後妻が原因不明の病で急死、布施、小平両氏は泥酔後に沢に転落して死亡、玄義一派の者たちにも良からぬことが続いたうえ、天候不順により領内の農作物が凶作となった
- ^ 御嶽堂の場合、古代から続く英多社との合祀とされる。
- ^ 海野、禰津、真田のいずれの氏も滋野氏。
- ^ 笛吹峠合戦では「上州勢の諸手には、板垣駿府守を大将として、栗原左衛門慰詮冬・日向大和守・小山田左衛門慰・小宮山丹後守・逸見・勝沼・小會・南部に、信州先方蘆田下野守・相木市兵衛慰を差副へられ、其勢 都合七千餘人」。海野合戦では「海野平に戦ふべしとて、則ち彼地に押し押し出さる。(中略)先ず先手の右の方は小山田備中守。信州先方の相木市兵衛慰・望月甚八・蘆田下野守……」。北条攻めの相模川渡河では「斯くて、相模川を渉さるべしとて、其陣列を定めらる。先人は、内藤修理正昌豊・小山田左衛門慰信茂・蘆田下野守・小山田備中守・安中左近・保科弾正忠・諏訪五郎・相木市兵衛……」
- ^ 「二万の人数、手分・手腑部府・手与、此備八ヶ条之事。(中略) 八 二、三百宛の備五手ハ、千五百、遊軍也。右を信玄公御家にハ、うき勢と申し候。付、是ハ敵城も攻取、はきて捨に、此遊軍に申付ク。又敵城責取、能城とて抱候へば、此遊軍を番手に置。(中略)此遊軍を信玄公御家にハ、浮勢と申し候。去程に、信州先方侍大将足田下野(芦田下野守)、浮勢の頭也。以上」「甲陽軍鑑末書」(下巻下、七)
- ^ 「妙法寺法」には「甲州府中に一國大人様を集り居給候」とあり、「一國大人様」とは、武田家臣中の侍大将級を指す
- ^ 「芦田下野屋敷」と呼ばれていた
- ^ 「高知席」は家老5人と家老次席の城代1人を輩出する家柄を示す。長野県立歴史館
- ^ 佐久市志には「芦田氏(=芦田下野守)は小県郡丸子の依田一族と推定されている」と記述されており、古文書等の根拠は示されておらず、執筆者の推測に止まっている。
- ^ 当時の芦田氏が依田氏流だったならば幕府職に就いていた依田氏は停任(ちゃうにん:ちょうにん)などの憂き目に逢った可能性は大きいはずである。
- ^ 康真が越前に移封してからは、康真の子孫は芦田姓を名乗った。
出典編集
- ^ 信濃史源考(一) (2001)PP10-12
- ^ 小県郡史(1922)PP300ー301
- ^ 上田市誌歴史篇4『上田の荘園と武士』 (2001)PP44-45
- ^ 上田市誌歴史篇4『上田の荘園と武士』 (2001)P50
- ^ 市川武治(1993)P179
- ^ 市川武治(1993)P179
- ^ 市川武治(1993)P179
- ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)P147「中世法制史料集(一)鎌倉幕府法」追加法701「鎌倉遺文」20484
- ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)「吾妻鏡」PP144-145
- ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)PP145-148
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- ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)P186
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- ^ 尊卑分脈(1904)第8巻・清和源氏満快流P28
参考文献編集
- 書籍
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- 大久保彦左衛門、小林賢章編 『将軍家と譜代大久保家 三河物語(下)』 教育社、1980年1月。
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- 東信史学会編 『千曲』 第130号巻 東信史学会、2006年7月。
- 小県郡役所編 『小県郡史・本篇』 明治文献、1922年10月。
- 史料
- 『日本書紀』。
- 『続日本紀』。
- 『吾妻鏡』。