侯莫陳 相(こうばくちん そう、489年 - 571年)は、中国東魏から北斉にかけての軍人本貫代郡

経歴編集

朔州刺史・白水郡公の侯莫陳斛古提の子として生まれた。7歳のとき、父を喪った。531年高歓の起兵に従った。532年、高歓の下で韓陵に爾朱氏を破ると、功績により陽平県伯に封じられた。後に白水郡公に改封された。大行台・節度西道諸軍事をつとめた。また車騎将軍顕州刺史に転じた。入朝して太僕卿に任じられた。ほどなくして、汾州刺史として出向した。安次県男の別封を受け、また始平県公の別封を受けた。550年、北斉が建国されると、太子太師となった。554年司空公に転じた。爵位は白水王に進んだ。後に大将軍に転じ、太尉公となり、瀛州刺史を兼ねた。太保・朔州刺史を経て、太傅となり、建州を食邑とし、義寧郡公の別封を受けた。571年4月、朔州で死去した。享年は83。仮黄鉞・使持節・都督冀定瀛滄済趙幽并朔恒十州諸軍事・右丞相・太宰・太尉公・朔州刺史の位を追贈された。

子に侯莫陳貴楽・侯莫陳晋貴がいた。侯莫陳貴楽は公主をめとり、駙馬都尉となった。侯莫陳晋貴は、白水王の爵位を嗣ぎ、北斉の武衆将軍・梁州刺史となったが、并州が陥落すると北周に降り、上大将軍・信安県公となった。

伝記資料編集