俊頼髄脳
『俊頼髄脳』(としよりずいのう)は、源俊頼によって書かれた歌論書。1113年成立と考えられている。別名『俊頼口伝』『俊秘抄』。
別名
編集諸書に『俊頼朝臣無名抄』『俊頼朝臣抄物』などの名目で引用されている。現存写本の標題も『俊頼口伝集(としよりくでんしゅう)』『山木髄脳(さんぼくずいのう)』『俊頼口伝(としよりくでん)』『俊秘抄(しゅんぴしょう)』『無名抄(むみょうしょう)』『唯独自見抄(ゆいどくじけんしょう)』など、さまざまある[1]。以上より、当初から明確な書名はなかったとされる[2]。
概要
編集『今鏡』すべらぎの中や本書顕昭本奥書によれば、源俊頼が関白藤原忠実の依頼によって、彼の子である泰子(のちの鳥羽天皇皇后)のために天永2(1111)年から永久2(1114)年までの間に著した作歌の手引書である[2]。
内容
編集作歌のための実用書であり、具体的な心得を説くことを主眼とする。和歌の学書として整序されているわけではなく、構成に一貫性はない[2]。
序に始まり和歌の種類(反歌[短歌]・旋頭歌・混本歌・折句歌・廻文歌・短歌[長句歌]・誹諧歌・連歌・隠題等)、歌病論、歌人の範囲、和歌効用論、実作の種々相、題詠論、秀歌論、各種風体の歌の例示、和歌に用いる譬喩、本歌取り、歌枕など、歌語とその表現の実態(歌語論)という順で排列される。
そのうち歌語・表現の種々な具体的記述が全体の約三分の二を占める。説話色も濃く、和歌の詠まれた背景となる解釈および伝説・故事などが詳しく記されている[2]。
評価と受容
編集所説が『奥儀抄』はじめ平安時代末・鎌倉時代初期の歌学および歌論書に、非常に大きな影響を与えている。俊頼髄脳を引用した諸書としては、『袋草紙』『和歌童蒙抄』『宝物集』『拾遺抄註』『散木集注』『古今集注』『袖中抄』『日本紀歌注』『和歌色葉』『六百番歌合判詞』『古来風体抄』『長明無名抄』『八雲御抄』『沙石集』『古今著聞集』など枚挙にいとまがない[3]一方、誤認・誤解がすこぶる多い[2]。
当時の和歌の役割は、貴族の社交生活の儀礼ないし遊戯として認識されていた。よって俊頼の論点も、個人の心の慰めとしての歌より、公的催しに詠まれる「晴の歌」に集中している。だから問題は、和歌のことばが一首全体のなかでどれだけ美的効果をあげられるかにある。「おほかた、歌の良しといふは、心をさきとして、珍しき節をもとめ、詞をかざり詠むべきなり(=およそ歌がよいと評価されるのは、まず詠む対象に対する感動が第一であり、その感動を表現するときは、どこかに新しい趣向を凝らし、しかも華やかに表現すべきである)」と説き、歌の詞と趣向の働きということを、具体的な例歌を引いて説明している。それまでの歌論的成果が吸収されているとともに、新しい和歌の変質の予感を微妙に示している。
歌道執心をとくが、末代の歌人について「心を先として珍しき節を求め,詞を飾り詠む」として、新たな歌風を目指すべきであると強調しており、俊頼の新風への志向が明瞭にうかがわれる[4]。
伝本と刊本
編集現在は国会図書館本(定家本)が通行する。定家本は「此草子安元之比」云々の奥書をもつ本を指す呼称であり、筆者者が藤原定家であるのかには議論の余地がある[3]。伝写本の他のすべては顕昭本である[2]。 写本の系統を示しておく[3]。
祖本 |
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関連項目
編集出典
編集脚注
編集書誌情報
編集- 橋本不美男「俊頼髄脳」『国史大事典』 10巻、吉川弘文館、1989年。
- 近藤潤一「俊頼髄脳」『世界大百科事典』平凡社、2007年。
- 藤原濱成「解題」『日本歌学大系』 1巻、文明社、1940年。