修文館(しゅうぶんかん)は、明治時代初期に現在の神奈川県横浜市にあった英学校

S・R・ブラウンと修文館の生徒たち

沿革 編集

もとは、旧暦・慶応元年2月(1865年)、江戸幕府により伊勢山下(現・花咲町5丁目)の神奈川奉行役宅に、役人子弟への漢学教授のために設置された文学稽古所(学頭は菊地俊助)。同年5月に林大学頭の選により「修文館」の称号が付された。幕府瓦解とともに、明治元年(1868年)に廃止[1][2]

明治2年(1869年)、神奈川奉行所を引き継いだ裁判所(行政機関)により再興され、旧英学所(文久2年開設)に英・仏学科、旧修文館に漢学科を設置し、平民の入学も許可した。さらに現在の北仲通6丁目の旧武術稽古所跡に移転合併し、皇学・漢学・洋学の3科を擁する修文館として開設された[1][3]

明治3年(1870年)、上記3科に書法・数学の2科を追加[1]。さらに「外国ノ交際日々ニ旺盛ニ趣キ英学ヲ偏重スルノ勢アルヲ以」って、英学校と改称(8歳から16歳までは国典漢籍、17歳から英学を教授)[3]。同年8月より3年契約で、アメリカ・オランダ改革派教会宣教師S・R・ブラウンが英語科主任に就任した[2][4]。当初、入学者は神奈川県の役人や県内住民に限られていたが、後の規則改正で県外の生徒も受け入れた。

明治4年(1871年)より民費による経営となり、旧修文館に移転、市学校と称して専ら英学を教授[1][3]三井八郎右衞門原善三郎、小野善三郎ら実業家による多額の寄付金により規模を拡大した[1]

明治5年(1872年)、啓行堂に改称[5](後に設置された教員養成所「番外啓行堂」は別組織)。同年8月、私立同文社(代表・川村敬三星亨が経営)を合併[1][2]

さらに新暦・1873年(明治6年)、高島嘉右衛門が明治4年に設立した藍謝堂(横浜町学校・高島学校とも)を合併(翌年1月に藍謝堂は焼失[6])し、市中共立修文館と改称[1]。後に洋風3階建校舎を相生町6丁目に建設、外国人教師3名を雇い、通弁・商業の2科を主として、川村敬三が取締に推された[1]

1875年(明治8年)、野毛山(旧・戸部町字境久保)に校舎建築移転、修文館に名称を戻したが、翌1876年(明治9年)6月に廃止、神奈川県師範学校に改編された[2]

在任期間は不明だが、日本人教師としては星亨、川村敬三、石川彝(つね)、横尾東作小林乾一郎、柳谷謙太郎らが担当[2][3][7]

刊行書 編集

主な出身者 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h 『横浜開港五十年史 下巻』201-203頁。
  2. ^ a b c d e 小玉敏子「横浜の英学(一)私塾について」2-3頁。
  3. ^ a b c d 草間俊郎「横浜の英語教育機関−幕末維新期・明治期における公認諸学校」1-(1)より。
  4. ^ 1873年にブラウンが辞任するに伴い、彼に師事した松平定敬や駒井重格、井深梶之助を含めた10数名により、ブラウンの自宅(山手211番地)でブラウン塾が開かれた。のちに、藍謝堂教師となり、ヘボン塾を継承したJ・C・バラの塾から押川方義、熊野雄七、植村正久、藤生金六ヘンリー・ルーミスの門下より山本秀煌T・A・パーム門下より雨森信成が入塾し、島田三郎や白石直治も合流した。
  5. ^ 神奈川県『神奈川県史 通史編4 近代・現代(1)政治・行政1』1980年、第1編の第2章第3節(「学制」改革)及び、刊行書『啓行堂入社之則』参照。
  6. ^ 石崎泰子「資料よもやま話:高島嘉右衛門と横浜町学校」『開港のひろば』第71号、横浜開港資料館、2001年。
  7. ^ 柳谷謙太郎はもと長崎唐通事。明治以降は主に外務官僚(許海華「幕末明治期における長崎唐通事の史的研究」関西大学、2012年)。
  8. ^ 『信用名鑑』信用名鑑発行所、1901年、298頁。

参考文献 編集

  • 『横浜開港五十年史 下巻』横浜商業会議所、1909年(第23章 教育及慈善)。
  • 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年。
  • 中島耕二・辻直人・大西晴樹共著『長老・改革教会来日宣教師事典』新教出版社、2003年。
  • 小玉敏子「横浜の英学(一)私塾について」『日本英学史研究会研究報告』1965巻33号、1965年。
  • 草間俊郎「横浜の英語教育機関−幕末維新期・明治期における公認諸学校」『英学史研究』1977巻9号、1976年。
  • 神奈川県『神奈川県史 通史編4 近代・現代(1)政治・行政1』1980年、第1編第2章第3節(「学制」改革)及び同第3章第2節(キリスト教の移入)。