倭刀(わとう、Wo-Dao:ウォタォ)とは、日本刀そのものや、中国朝鮮で製作された日本刀を模したを指す。中国や朝鮮で製作された倭刀は、などの外装が中国風の物もある。なお、中国で製作された倭刀は、大太刀がもとになった苗刀のみではなく、太刀打刀を模した物もあった。大太刀の場合は中国の長兵器と互角に戦う事が出来た。[1]

概要 編集

代より日本刀は貿易によって中国に伝えられており、同時代の欧陽脩が『日本刀歌』を詠み、日本刀を絶賛している。また、代初期には、明の朝廷の軍器局によって、倭刀が製作され始めた。

中国で日本刀が武器として認められるようになったのは倭寇が火縄銃と共に大太刀や長巻を武器として使用したからである。[1][2]倭寇の日本刀は明軍の長柄武器の柄を斬り落としてしまうため、火縄銃よりも恐れられた。[1]

倭寇により明軍が総崩れになり、その軍をたて直し撃退した武将戚継光(1528年-1587年)は、辛酉年(嘉靖40年(1561年))に対倭寇戦の陣上で『影流目録』断簡を得た。これは日本の陰流剣術のものと推測される。この目録は戚継光が著した『辛酉刀法』に掲載された。さらにまた、茅元儀の『武備志』にも掲載された。

これには「は軽快で、前後左右に飛び回り、で斬ろうと近づこうにも、刀の方が長く近づきにくい。また、で突こうにも柄ごと両断されてしまう。」 とある。

明代に輸入された日本刀とあるいは中国で製造された日本刀様式の中国刀は長刀、腰刀、短刀の三種に分類された[3]。長刀は大太刀の事である。腰刀は三尺前後、短刀の具体的な長さは不明である[3]。薙刀も日本から輸入され、使われた[3]

戚継光は、「鴛鴦陣」や「三才陣」といった戦闘隊形で倭寇を撃退した。[4]

「鴛鴦陣」は2枚の盾を正面にした2列縦隊である。[4]

まず弓矢の防御に適した長大な盾「長牌」と腰刀、扱いやすくて軽い楯「藤牌」と腰刀と鏢槍(投槍)を装備した兵が正面からの攻撃を防ぐ。[4]

藤牌手は鏢槍を投擲して、敵に隙が生じた瞬間に腰刀を抜いて斬り込む。[3]

盾の近くまで接近した敵には、2層目の兵が竹の葉を落として作った槍「狼筅」で日本刀や槍の攻撃を払ったり、体に叩き付けたりして相手の戦闘力を奪う。

次に3,4層目の兵が長槍を繰り出す。[4]

火箭を操る短兵は第5層に位置して、接近する敵に火箭を放つ。火箭はロケット花火のような武器である。[4]

この攻撃により倭寇の組織的な前進を妨害した。また、短兵は接近戦用の武器として「ドウハ」を装備していた。ドウハは穂先が大きく三つ又に分かれた槍で、中央に刺殺用の穂先、左右の枝には棘が植えつけられ、殴打に適した。火箭を撃ち尽くした短兵はドウハを手にして、長槍と共に倭寇と格闘したのである。[4]

「三才陣」は隊長、長牌手、藤牌手の3名を正面に、その左右に狼筅手、長槍手が展開して作る横隊である。まず、火箭で敵の隊列を崩し、続いて接近した倭寇の攻撃を隊長の左右の狼筅手が妨害する。さらにこれを盾に守られた長槍手が攻撃した。この陣形では短兵は後方に位置して火箭による援護を行った。[4]

戚継光は鴛鴦陣・三才陣を農民や坑夫出身の兵士に徹底して教練することで、対倭寇戦において最強の軍団を作り上げた。[4]

また、対倭寇戦で倭寇から得た鳥銃(火縄銃)を装備した兵に倭刀を装備させ[1]、倭刀装備の鳥銃兵を含む部隊(戚継光の考案した部隊編成の特徴は、同一の装備の兵ごとに部隊を分けるのではなく、多様な装備を持つ兵を一定の比率で混在させたものであるため)をどのように運用するかを研究した。

対倭寇戦で完成された小隊戦術は、北方の国境警備にも持ち込まれた。[4]南方では補助的役割を占めていた「銃」が「隊」ごとに配備され、さらに「長柄快槍」という棍棒の先に火薬発射式の火銃を取り付けた武器が配備された。北方では伍長2名に鳥銃が装備された。長柄快槍は弾丸を発射した後は長い棍棒として白兵戦用の武器になるため長槍兵2名に装備された。[4]

北方における隊編成は1層目に藤牌手と長牌手、2層目に狼筅手が配置される。[4]

そして、3層目にはドウハ手が位置し、接近した敵兵、特に騎兵を殴打、刺突する。[4]

4層目の鳥銃手は、鳥銃発射後は両手持ちの大太刀タイプの倭刀である長刀に持ち替えて敵騎兵の足を払い、

5層目の長柄快槍手は、弾丸発射後は、敵兵を打突した。[4][5]

南方の倭寇との歩兵戦で練り上げられた小隊編成は、北方で騎兵の装備と編成にも取り入れられた。[4]

隊長1名、伍長2名が鳥銃と双手長刀という大太刀タイプの倭刀を装備した。[4]

快槍手2名は「長柄快槍」同様に火器と棍棒をミックスした「快槍」という兵器を運用する。[4]

ドウハ手2名はドウハによる接近戦を行うが、遠距離戦用に火箭も装備した。[4]

刀棍手2名は弓や弩(クロスボウ)で遠距離戦を行い、刀剣や棍棒で接近戦を行う伝統的な騎兵である。[4]

大棒手2名も伝統的な騎兵で、弓で遠距離戦を、長い棍棒「大棒」で接近戦を戦った。[4]

火器導入によってその効果が最も際立って現れたのは、伝統的に「一撃離脱戦法」や追撃戦も可能な騎兵部隊であった。[4]

その成果として、アルタン・ハントモン・ハンの侵入を撃退することに成功した。

以上のように明代の軍隊において倭刀および倭刀術は積極的に導入され、一定の軍事的効果を上げた。[3]

しかし、明代末期には未だ軍隊で倭刀が使われていたものの、長刀の使用方法は既に失われ、短くて重い倭刀は破棄または使用しやすいように改造された。[3]

脚注 編集

  1. ^ a b c d 篠田耕一. 武器と防具 中国編. 新紀元社 
  2. ^ 平上信行 笹尾恭二. 対談 秘伝剣術 極意刀術. BABジャパン 
  3. ^ a b c d e f 林伯原. 中国武術史 ― 先史時代から十九世紀中期まで. 技藝社 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 戦略戦術兵器大全 中国古代~近代編. 学研 
  5. ^ 戦闘技術の歴史5 東洋編. 創元社 

関連項目 編集

外部リンク 編集