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兜塚古墳(かぶとづかこふん)は、現在の宮城県仙台市太白区宮城県仙台南高等学校の校地にある古墳である。帆立貝式の前方後円墳で、築造は5世紀後半と推定されている。全長約75メートルで、葺石埴輪を伴い、同時期の仙台平野の古墳の中では大きなものであった。

兜塚古墳
Kabutozuka-kofun 2005-07.jpg
2005年7月
所在地 宮城県仙台市太白区根岸町14
位置 北緯38度14分19.2秒
東経140度53分3.2秒
座標: 北緯38度14分19.2秒 東経140度53分3.2秒
形状 前方後円墳
規模 全長約75メートル
築造時期 5世紀後半
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立地と構造編集

仙台平野を流れる広瀬川の南岸(右岸)、大年寺山東麓の沖積平野に築かれた。似たような立地で兜塚よりやや小ぶりの古墳が一塚古墳二塚古墳裏町古墳などである。やはり近辺の大野田古墳群は、それらよりさらに一回り小さく、密集した古墳群である。兜塚古墳などの被葬者は大野田古墳群の被葬者の上に立つ首長層と説かれる[1]

現状は径約50メートルの円墳のように見えるが、これは市道兜塚線[2]によって前方部が切り取られたためである。推定規模は後円部の径が62.4メートル、前方部の長さ15メートルで主軸長約75メートル、前方部前端の幅が約30メートル、後円部の高さ6.8メートル。周溝の幅は後円部で13メートル[3]。前方部が著しく小さな帆立貝形である。

後円部は2段が肉眼で明瞭にみてとれ、3段以上ありそうにも見える。この段を兜に見立てたのが名の由来であろう。段の斜面には葺石が置かれた。また、円筒埴輪朝顔形埴輪が並べられた。

伝説・発掘・現況編集

兜塚の名は、兜を伏せたような段々の形からついたと思われる。地元では、慶長6年(1601年)に近所で起きた小人騒動の死者を埋めたため小人塚(こびとづか)と呼ぶという説が17世紀のうちに生まれた[4]明治時代までの仙台の人々にはこの伝説で知られた塚で、古い地図には小人塚やコビト塚と書いたものもある[5]

しかし、明治時代の考古学者の目には既に古墳であることが明らかであった。問題はこれが円墳なのか前方後円墳の前方部が壊されたものなのかで、説が分かれていた[6]

1959年昭和34年)、現在の宮城県仙台南高等学校の校地などに広がっていた宮城県農学校[7]に勤務していた沼倉吉兵衛(仙台白菜の生みの親)の胸像が、農学校の同窓会によって古墳上に設置された。

1977年(昭和52年)に宮城県教員委員会が周囲の東側の発掘調査を実施し、馬蹄形の溝を発見したため、前方部が小さい帆立貝式の前方後円墳だろうということになった。続いて1988年(昭和63年)に南側も発掘されたが、主体部に調査は及んでいない。

出土物編集

周辺調査のみということもあり、葺石に使われた丸い河原石多数を除けば、円筒埴輪と朝顔形埴輪の破片がわずかに見つかっているだけである。埴輪片は近くの富沢窯跡で出土したものと似ている[8]

脚注編集

  1. ^ 『仙台市史』特別編(考古資料)「大野田古墳群」260頁。
  2. ^ 仙台市道太白385号・兜塚線(最小幅員7.80m、最大幅員12.00m、延長483.2m)
  3. ^ 『仙台市史』特別編(考古資料)「兜塚古墳」256頁。
  4. ^ 清水東四郎『宮城県通史』5頁。
  5. ^ 琴田鶽太郎・東洋造画館の大正元年(1912年)「最新版仙台市全図」(『100年前の仙台を歩く 仙台地図散歩』今野印刷所、2009年に復刻版収録)に甲塚又小人塚とあり、カブト、コビトとルビを振る。盛文館・木村文助の昭和11年(1926年)改正版「最新刊地番入仙台市地図中央部」と昭和18年(1933年)「仙台市中央部地図」(塔文社レトロマップシリーズ2『昭和11年、18年、27年の仙台と現在の仙台』に復刻版収録)は兜塚とする。
  6. ^ 清水東四郎『宮城県通史』5頁は「丸塚」、つまり円墳とする。
  7. ^ 当時の名取郡茂ヶ崎村、現在の仙台市太白区にあった。後に宮城県農業高等学校となり、名取市に移転。
  8. ^ 『仙台市史』特別編(考古資料)「兜塚古墳」256頁。

参考文献編集

  • 伊東信雄「仙台市の古墳」、『仙台郷土史の研究』、宝文堂、1979年。
  • 清水東四郎『宮城県通史』、新約社書店、1931年。覆刻版は宝文堂により1976年発行。
  • 仙台市史編さん委員会『仙台市史』特別編2(考古資料)、仙台市、1995年。「兜塚古墳」「大野田古墳群」ともに執筆は藤沢敦。

外部リンク編集