六川正彦
六川 正彦(ろくかわ まさひこ、1951年7月18日[1] - )は、日本のベーシスト、作曲家、音楽プロデューサー。有限会社ロコスミュージック代表[2]。音楽関係者からは「六さん」の愛称で親しまれる[3]。
六川 正彦 | |
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生誕 | 1951年7月18日(73歳) |
出身地 | 日本・東京都中野区 |
学歴 | 日本大学芸術学部 |
担当楽器 | ベース |
活動期間 | 1970年代 - |
事務所 | ロコスミュージック |
公式サイト | ロコスミュージック |
著名使用楽器 | |
フェンダー・プレシジョンベース |
来歴
編集東京都中野区生まれ[1][3]。小学生時代、テレビで観たザ・ピーナッツに憧れ、公演を調べ、観に行かせてほしいと親を説得。中学時代には、たまたま聴いたザ・ベンチャーズのレコードに衝撃を受け、エレクトリック・サウンドに魅了された。特にメル・テイラーのドラムスに惹かれ、同級生たちとバンドを結成し、六川はドラムスを叩いた[3]。高校時代はグループ・サウンズに憧れ、ゴーゴー喫茶に通い、そこでアルバイトも始め、生演奏に多く触れた。その頃に聴いたルイズルイス加部や柳ジョージの影響で、ドラマーであったがベースにも興味を持つようになった[3]。
日本大学芸術学部時代にはバンド・グレムリンにベーシストとして参加。当時の友人には駒沢裕城(はちみつぱい)、土屋昌巳(一風堂)など、グレムリンのメンバーには土屋潔(美乃家セントラル・ステイション)、井ノ浦英雄(夕焼け楽団)がおり、六川がミュージシャンを志したのもこの時期であった[3]。先輩であり、いち早くプロになっていた駒沢の伝手で南佳孝のデビュー・アルバムのレコーディングのリハーサルを見学。そこで聴いた細野晴臣のベースは衝撃的で「ビート感がとにかくイカしてた。どうしてもベースに目と耳がいく。すごかった。もうカバーをやっている場合じゃない。自分のスタイルを作らないと」と、プロのベーシストへの思いを強めた[3]。ヤマハが運営する合歓の郷で半年間住み込みながら、まだヒット前の松崎しげる、庄野真代、葛城ユキらのバックで演奏する仕事をしていた時期があり、これがよい修行になったと語っている[3]。後にヤマハの音楽スクールでベースの講師を依頼されたことがあり、生徒にはすでにプリズムで活動していた渡辺建らがいた。
1970年代半ば、南佳孝、吉田美奈子、あがた森魚などとの共演でキャリアを積み、旧知の土屋昌巳からの誘いを受け美乃家セントラル・ステイションに加入。大橋純子とは現在もステージで共演している[3][4]。アリスのファイナルツアーにもベーシストとして参加。解散後は堀内孝雄のツアーにも帯同した。サザンオールスターズの野沢秀行とも古くから親交があり、野沢のユニット・JAPANESE ELECTRIC FOUNDATIONでもベースを依頼された[3]。
1978年に大瀧詠一プロデュースNIAGARA FALLIN' STARS名義で発売したアルバム『LET'S ONDO AGAIN』に収録の多羅尾伴内楽團『峠の早駕籠』(お猿のかごやのタイトル違い)にて駕籠屋の「えっほ、えっほ」と言う掛け声を同じベーシストの光永巌と担当する形で参加したこともある[要出典]。
1980年代、徳武弘文からも声がかかり、Dr.K Projectとして活動。中学時代に憧れていたという加山雄三のバックで演奏し、後にザ・ベンチャーズとも共演した[3]。
六川がレコーディング・ディレクションを担当していたHUMMING BIRDの所属事務所・シャングリラが倒産。路頭に迷った関係者らを救済する形で、1996年11月に新たな音楽プロダクションとしてロコスミュージックを立ち上げた[2][4]。以降も、多くのミュージシャンのライブ・レコーディングなどに参加。