兵庫県立夢野台高等学校

兵庫県神戸市にある高等学校

兵庫県立夢野台高等学校(ひょうごけんりつ ゆめのだいこうとうがっこう、英称:Hyogo Prefectural Yumenodai High School)は、兵庫県神戸市長田区房王寺町二丁目にある県立高等学校。略称は夢高ゆめこう、または夢野ゆめの

兵庫県立夢野台高等学校
現校舎玄関部分
地図北緯34度40分37.6秒 東経135度9分12.5秒 / 北緯34.677111度 東経135.153472度 / 34.677111; 135.153472座標: 北緯34度40分37.6秒 東経135度9分12.5秒 / 北緯34.677111度 東経135.153472度 / 34.677111; 135.153472
過去の名称 兵庫縣立第二神戸高等女學校
兵庫県立第二神戸女子高等学校
兵庫県立夢野台高等学校(第一次)
兵庫県立神戸市立神戸夢野台高等学校
兵庫県立神戸夢野台高等学校
国公私立の別 公立学校
設置者 兵庫県の旗 兵庫県
学区 第1学区
設立年月日 1925年3月12日
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
教育・心理類型
学期 3学期制
学校コード D128210000040 ウィキデータを編集
高校コード 28104C
所在地 653-0801
兵庫県神戸市長田区房王寺町二丁目1番1号
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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概要 編集

1925年兵庫県立第二神戸高等女学校として設立。 2025年に創立100周年を迎える。[1]

校訓  編集

清く 正しく 優しく 強く

教育目標  編集

自主的な人間の育成、社会的な人間の育成、健全な人間の育成。

制服  編集

男子は詰襟。女子はイタリアンカラーのブレザー。女子はスラックスとスカートを選択できる。夏服は青と白のポロシャツがある。 [7]

沿革 編集

高等女学校時代
  • 1925年(大正14年)
    • 3月12日 - 「兵庫縣立第二神戸高等女學校」が設立される(入学資格を尋常小学校卒業程度の12歳以上、修業年限を5年とする)。
    • 4月1日 - 兵庫縣立第一神戸高等女學校(現・神戸高校、略称:県一)の校舎にて開校。
    • 4月4日 - 授業を開始[2]
  • 1927年(昭和2年)8月28日 - 現在地[3] に移転[4]
  • 1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令により、この年の入学生から修業年限が4年となる。
  • 1944年(昭和19年)4月1日 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、修業年限4年の施行が1946年(昭和16年)以降に入学した生徒に前倒しして適用される。
  • 1945年(昭和20年)
    • 3月 - 修業年限4年施行の前倒しにより、1940年(昭和15年)に入学した5年生と1946年(昭和16年)に入学した4年生の合同卒業式を挙行。
    • 4月1日 - 授業を停止。ただし学徒勤労動員は継続。
    • 8月15日 - 終戦。
    • 9月 - 授業を再開。
    • 10月15日 - 兵庫縣立第一神戸高等女學校が本校内に同居。
  • 1946年(昭和21年)
    • 4月1日 - 修業年限が5年に戻る。
    • 12月23日 - 兵庫縣立第一神戸高等女學校の移転により、併設を解消。
  • 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制実施)が行われる。
    • 高等女学校の生徒募集を停止(1年生不在)。
    • 新制中学校を併設し(名称:兵庫県立第二高等女学校併設中学校、以下:併設中学校)、高等女学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。
    • 併設中学校は、経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
    • 高等女学校3・4年修了者はそのまま高等女学校に在籍し、4・5年生となった(4年で卒業することもできた)。
新制高等学校
  • 1948年(昭和23年)
    • 4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、高等女学校が廃止され、新制高等学校兵庫県立第二神戸女子高等学校」(女子校)が発足。
      • 高等女学校卒業生(5年修了者)を新制高校3年生、高等女学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業生(3年修了者)を新制高校1年生として収容。
      • 併設中学校は新制高校に継承され(名称:兵庫県立第二神戸女子高等学校併設中学校)、在校生が1946年(昭和21年)に高等女学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
    • 5月25日 - 神戸市立神戸高等学校(男子校、旧・神戸市立第一中学校)が敷地内に転入。
    • 9月1日 - 高校三原則による兵庫県内公立高校の再編が行われる。
      • 兵庫県立第二神戸女子高等学校が「兵庫県立夢野台高等学校」に改称され、同敷地内に神戸市立神戸高等学校(男子校)が併設された状態で男女共学を開始。
      • 併設中学校は兵庫県立夢野台高等学校併設中学校と改称。
  • 1949年(昭和24年)
    • 3月31日 - 併設中学校を廃止。旧制中等教育学校4・5年から新制高等学校(全日制)3年への修業年限の移行が完了する。
    • 9月 - 神戸市立神戸高等学校(男子校)1年生を夢野台高等学校に移籍。
  • 1950年(昭和25年)7月1日 - 兵庫県立夢野台高等学校と神戸市立神戸高等学校(男子3年生のみ在籍)を併設する「兵庫県立神戸市立神戸夢野台高等学校」が発足。
  • 1951年(昭和26年)
    • 3月 - 神戸市立側に在籍する最後の学年が卒業。神戸市立神戸高等学校及び神戸市立神戸夢野台高等学校は神戸市立葺合高等学校として葺合区の校地へ復帰。
    • 4月1日 - 県立単独校に戻り「兵庫県立神戸夢野台高等学校」と改称。
  • 1952年(昭和27年)
    • 1月 - 学区の改編(中学区制)により、神戸第二学区となる。
    • 2月7日 - 「兵庫県立夢野台高等学校」()と改称。
    • 10月 - 校歌を制定。
  • 1974年(昭和49年)5月1日 - 兵庫県立御影高等学校との定期戦を開始。
  • 1993年(平成5年)11月5日 - 第1期校舎改築工事を着工。
  • 1995年(平成7年)10月30日 - 南館本館棟が完成。
  • 1998年(平成10年)
    • 2月19日 - 体育館と文化部室棟が完成。
    • 3月17日 - 北館特別教室棟が完成。
  • 1999年(平成11年)
  • 2000年(平成12年)3月25日 - 運動場整備工事完成。
  • 2010年(平成22年)4月1日 - 「教職」類型設置。
  • 2020年 (令和2年) 4月1日 - 兵庫県より、「ひょうごスーパーハイスクール グローバル枠」の研究指定校に選ばれる。(令和3年度まで)
  • 2022年 (令和4年) 4月1日 - 「教育・心理」類型に改編
  • 2023年 (令和5年) - 新制服導入[5]北館、南館トイレ改修、本館外壁改修[6]
    • 7月オーストラリア海外研修開始

設置学科 編集

全日制課程

※学科内に教育・心理類型を設置

アクセス 編集

校歌・逍遥歌 編集

校歌 編集

逍遥歌 編集

特色 編集

  • 校章は蔦の葉を型取っただけのシンプルなデザイン。一般的な「高」の文字などは一切入っていない。
  • 学年章(Y10から使用)はカタカナの「ユ」をかたどっただけのデザイン。背色が白・赤・青の3種類。
  • 兵庫県立御影高等学校と毎年、定期戦での交流を行っている。御影高校の前身が「県三」のため、当校とは旧高等女学校同士の関係にある。通算戦績は令和四年時点で夢野台がリードしている.
  • 同窓会組織は社団法人親蔦会(しんちょうかい)。
  • 卒業生は県二時代、併設中学校時代、現高校時代とに分かれて第1回生卒業から何年目かを示す数字で示される。県二時代では「女~」または「K~」、併設中学校時代は「併~」、現高校時代は「高~」または「Y~」と略記されるのが一般的(例:「女14」「高25」「Y36」)。
  • 2022年度より、教育×心理の理解を深めるために、心理学演習を新たに類型のカリキュラムに追加。神戸大学大学院生と共同演習を行っている。他にも同志社大学赤ちゃん学研究センターや兵庫教育大学訪問など、高大連携事業の講義が組まれている。
  • 国際理解教育にも力を入れており、類型生徒の他、類型ではない生徒も希望すれば、オーストラリアの中・高等教育機関の現地訪問や台湾の中等教育機関とのオンライン交流などに参加できる。[8]
  • 土日祝日又は長期休暇の部活動等での登校時は各部のジャージでの登校が可能。
  • 全ての普通教室にICT関連機器が使用できるようにホワイトボードが設置。また、プロジェクターを使った学習を行う専門教室として、リサーチルームが開設された。

年間行事  編集

  • 1学期

4月入学式,対面式,定期戦、6月文化祭、

7月球技大会

  • 夏休み

8月オープンハイスクール(夏)、オーストラリア現地研修(希望生徒) 

(教育・心理行事)同志社大学赤ちゃん学研究センター・兵庫教育大学・神戸大学大学院・神出学園訪問

  • 2学期

9月体育祭、10月遠足(1.2年京都、3年USJ)、

11月芸術鑑賞会、オープンハイスクール(秋)、学校説明会、修学旅行(2年沖縄・石垣島3泊4日※北海道に行く学年もある。)、

12月人権映画鑑賞会、のじぎく特別支援学校交流(文化部・類型生徒)

(教育・心理行事)甲南大学リサーチフェスタ・台湾オンライン交流

  • 3学期

2月教育・心理類型入試、卒業式、3月学力検査、球技大会

進路実績 編集

過去3年間(73回生、74回生、75回生)の大学合格実績(抜粋) ※カッコ内は浪人生の内訳、私大は延べ合格者数
2023年(浪) 2022年(浪) 2021年(浪)
大阪大学 3 2(1) 2(1)
九州大学 0 1 0
神戸大学 1 2 6
大阪公立大学 1(1) 1 0
東京海洋大学 1 0 0
滋賀大学 2(1) 1 0
徳島大学 6 6 6(1)
広島大学 1 1(1) 1
岡山大学 2 3 4
兵庫県立大学 13(1) 19(4) 30(3)
九州工業大学 1 0 0
国公立計 78(7) 66(10) 100(13)
関関同立 171(20) 128(23) 164(21)
産近甲龍 178(不明) 171(不明) 156(24)

その他電通大1(73回生)、京都工繊大3(21.22.23年度浪人)、 福島県立医大医学部医学科1(21年度浪人)

  • 23、22年度の産近甲龍合格実績は現役延べ数

[7][8][9]

部活動 編集

  • 運動部の数が豊富であり、盛んである。空手道部は過去に全国大会に数度出場しており、県内強豪校であった。

※過去3年(2020〜22年)近畿大会出場○全国大会出場◎

  • 陸上競技部
  • 野球部-第104回全国高校野球選手権大会兵庫大会において、7年ぶり4回戦進出、前年の秋期県大会では強豪の育英を破り2回戦進出
  • 男子サッカー部
  • 女子サッカー
  • ラグビー部
  • 男子バスケットボール部
  • 女子バスケットボール部
  • 男子バレーボール部
  • 女子バレーボール部
  • 男子テニス部
  • 女子テニス部
  • バトン
  • 卓球部
  • 剣道部
  • 空手道部 ◎
  • 山岳部 ◎
  • アーチェリー部 ○
  • 水泳部 ○
  • ソフトボール部
  • 吹奏楽部
  • ギター部
  • 美術部
  • 茶道部
  • コーラス部
  • 放送部 ◎ ※前年は全国NHK杯入選(19年)
  • 華道部

学年構成 編集

2023年現在の学年構成は以下の通り。

  • 3年生:76回生(学年章=白)
  • 2年生:77回生(学年章=赤)
  • 1年生:78回生(学年章=青)

現校舎 編集

 
体育館(左)と現校舎(右)。旧校舎は今の体育館付近に存在した。
  • 旧校舎から現校舎への校舎改築計画は阪神・淡路大震災前から計画されており、第一期工事中に震災に遭うことになってしまった。また、この震災で改築計画は大幅に見直される事になった。
  • 現校舎設計に際し、「旧校舎の伝統を受け継ぐ」という観点が取り入れられた。そのため、玄関のデザインが旧校舎を模していたり、体育館内部の柱の天井部分のカーブも旧講堂のデザインが採用されている。
  • 当校の所在地は「房王寺町2丁目1番1号」であるが、これは正確には旧校舎での所在地であり、現校舎のある場所は正しくは「重池町2丁目1番」である。本来ならば後者が当校の所在地(=校舎の正門のある位置)になるべきであるが、便宜上、旧校舎時代のをそのまま現在も使用しているようである。
  • 本館と北館の、外壁を改修。また同館の全トイレが公立高校としては少ない、最新の洋式トイレに改修された。

第二神戸高等女学校時代 編集

  • 略称は県二(けんに)、または県二高女(けんにこうじょ)、第二高女(だいにこうじょ)。
  • 修業期間は5年(現在の中学3年間+高校2年まで)。但し1943年(昭和18年)4月1日からは4年(現在の中学3年間+高校1年まで)に変更される。
  • 第1回生(K1)は1925年(大正14年)4月入学~1930年(昭和5年)3月卒業。最後の県二生となる第20回生(K20)は1945年(昭和20年)4月入学~1949年(昭和24年)3月卒業。
  • 卒業生の「第○回生」の数え方は、修業期間変更後の一時期のみ、現在とは異なる数え方であった。
  • 一般的な通学ルートは国鉄(現・JR兵庫駅から、兵庫電気軌道(現・山陽電気鉄道長田駅から、神戸有馬電気鉄道(現・神戸電鉄長田駅から、神戸市電湊川公園停留所(廃線)からの徒歩であった。
  • 女学校にしては珍しくランドセルが採用されていた。
  • 運動会の最後は最上級生が踊る「ファウスト」と決まっていた。
  • 校歌は昭和2年~5年、昭和5年~10年、昭和10年~の3種類あった。
  • 1938年(昭和13年)7月3日に集中豪雨のために阪神大水害が起こったが、当校は奇跡的に助かった。
  • 1941年(昭和16年)頃、教頭の提唱で正門前通りの両側に並木としてクスノキ40本あまりを植樹。そのため旧校舎時代は見事な景観であった。現校舎建設工事に伴いほとんど伐採されたが、1本だけがかろうじて現存している。
  • 兵庫県全県から入学が可能だったが、1942年(昭和17年)から学区制が導入され、新生田川を境界線として当校は神戸西部学区に分けられた。
  • 1943年(昭和18年)に「兵庫県女子挺身隊結成式」が行われ、当校からも代表生徒が参加させられた。
  • 1945年(昭和20年)の入試では答案用紙が神戸大空襲で焼失したため、合格発表は雨天体操場の黒板にただ1行「全員合格」と書かれただけであった。
  • 明石大空襲で壊滅した川崎航空明石工場が1945年4月の始業式直後に当校舎内に移設(~1945年9月)。この工場は「報国第一〇一工場」と称された。
  • 1945年の大空襲で県一校舎が一部焼失。免れた部分も兵庫県庁が全面的に使用する事になり、県一が当校へ移転。移転の作業は瓦礫の中、徒歩で行われた。翌年県一の新校舎が決まり、併設が解消された。
  • 1946年(昭和21年)4月に入学した生徒は第21回生(K21)として入学したが、高等女学校の廃止により第21回生として卒業することはなかった。
  • 1947年(昭和22年)4月に併設中学校が併設。これは高等女学校が廃止される事になったため、当時高等女学校在学中だった生徒を新制の中学校と同じように卒業させるために設けたものであった。そのため、「併設中学校1年生」は存在しなかった。
戦前から戦後にかけての修業期間一覧表
S13.4 S14.4 S15.4 S16.4 S17.4 S18.4
5→4年に
S19.4 S20.4 S21.4 S22.4 S23.4
K14 1年 2年 3年 4年 5年
K15 1年 2年 3年 4年 5年
K16(期間5年) 1年 2年 3年 4年 5年
K16(期間4年) ↑と同じ ↑と同じ ↑と同じ 4年
K17(旧K16) 1年 2年 3年 4年
K18(旧K17) 1年 2年 3年 4年
K18(旧K18) 1年 2年 3年 4年
K19 1年 2年 3年 4年
K20 1年 2年 3年 4年
併1 ↑と同じ ↑と同じ 3年
併2 K21の1年 2年 3年

静寛院和宮像 編集

1934年(昭和9年)4月21日、県二内に静寛院和宮像(皇女和宮像)が建立され、教職員と生徒は登下校時にその前で必ず最敬礼を行っていた。当像は青銅製で三代目慶寺丹長の作であり、その前年の1933年(昭和8年)11月20日増上寺和宮奉賛会理事・桑原瑞龍による講演も開催された。同じ和宮像が当校のほかに、県一と神戸市立第二高等女学校(現・須磨高校、略称:市二)にも寄贈されており、当校と市二の像は東京・増上寺にある皇室下賜銅像と同一塑型を使用して特別に作られたものであった(但し、菊の紋章だけは葵のに変更)。そのため、当校と市二では非常に和宮像への崇拝が強かったと言われている。

太平洋戦争末期の物資窮迫が強まった時代、金属の提出で小学校の二宮金次郎銅像がすべて陶製になる中、当校と市二の静寛院和宮像はこの時代による提供を免れられた数少ない像であった。しかし終戦後、GHQによる占領政策でこの像が没収されるのを恐れた有志が当校の静寛院和宮像を隠し、占領政策が終了するサンフランシスコ講和条約締結後の1952年(昭和27年)4月までその状態は続いた。

占領時代が終わり、源平合戦・湊川の戦いに関わりのある須磨区「一ノ谷」の土地所有者が楠公精神に共感し、1954年(昭和29年)4月11日、「一ノ谷」に「寄手墳・味方墳」をハイキングコース脇道に建立。この時に静寛院和宮像は占領時代に隠匿していた有志の手によって、その寄手墳・味方墳の間に設置された(そこに置かれた経緯については不明)。その後、2000年12月に一ノ谷2丁目自治会によって須磨区一ノ谷町2丁目の一の谷公園内に場所を移して公開安置されている。

なお、この像については戦中混乱期から現在まで不明な点も多く、一の谷公園内に安置されている像が本当に当校県二時代に置かれていた和宮像であるのか、確証が無いのが実情である(市二での像、または県一での像という可能性も否定できない)。事実、一の谷公園内の皇女和宮像の説明文では

  • 「なぜこの像が山中にあったのか不明である」
  • 「県一、県二、市二の三女学校に和宮像を寄贈した。(中略)戦争中の金属提供から免れたその内の一体だと思われる」

と書かれてある。

戦後の統合問題 編集

二中との統合 編集

戦後、新制高等学校の設立準備にあたり、「高校三原則」を実現するようGHQから迫られる。これにより、隣接する男子校の兵庫県立第二神戸中学校(略称:二中、現・兵庫県立兵庫高等学校)と統合する話が1948年(昭和23年)3月に持ち上がったが、県二側が猛反対したため頓挫。理由はこの校舎が新設中学校(今の神戸市立丸山中学校)に明け渡されると聞かされたためであった。他にも県二側に秘密で二中側主導という理由もあったが、GHQ主導の占領政策がこのように撤回されるのは、まずあり得ない事であった。

市一中の併設 編集

県二と二中の統合が校舎にこだわる当校の反対で解消されたため、「高校三原則」実現のための男女共学への話が難航。そのため、次に当校へ示された条件として、校舎を残すのならば

  1. 男女共学を拒否したまま新制中学校への移行(要するに格下げ)
  2. 男子校の神戸市立第一中学校(略称:市一中)との併設で新制高校を継続

の二者選択を迫られた。その結果、新制高校継続のため県立高校と市立高校という変則的な併設が行われることになり、葺合区から兵庫区に臨時移設されていた神戸市立神戸高等学校(学制改革により神戸市立第一中学校から校名変更)が1948年(昭和23年)5月に当校舎内に移転併設され、同9月には県二側が兵庫県立夢野台高等学校と改称された。

1949年(昭和24年)4月、小学区制実施により当県立市立併設校に編入された生徒は、一旦はくじ引きで県立側と市立側に振り分けられたが、生徒の猛反発を呼んだため、早急に両校が統合することを条件に、暫定措置として男子は市立神戸高校側、女子は県立夢野台高校側へと振り分けられた。市立側は同じく小学区制実施により市一中が当校舎内に移転する前に校地として使用していた葺合区に市立葺合高校を設置し1年生が入学したことから、9月に市立神戸高校の男子1年生全員を県立夢野台高校側へ帰属させ、2年生及び3年生は卒業まで兵庫県立夢野台高校と併設状態で神戸市立神戸高校に在籍させた。1950年7月1日に校名が「兵庫県立神戸市立神戸夢野台高等学校」とされたが、この名称は市立側の生徒が全員卒業する翌年3月末までとなり、市立側の市立神戸高校及び市立神戸夢野台高校は市立葺合高校として葺合区の校地へ復帰。県立側は兵庫県立神戸夢野台高校として存続した。併設時代は校歌は無く[注 1]、その代用として「運動会の歌」が使用された。

当時の学年構成と卒業生呼称の一覧は以下の通り。

併設時代の修業期間一覧表
S23.4
4月新制開始
5月併設開始
S24.4
生徒振分
S25.4
7月校名変更
3月併設終了
S26.4 S27.4
男子
市神戸第1回生
3年 市神戸第1回生
女子
県夢野台第1回生
3年 現在のY1
男子
市神戸第2回生
2年 3年 市神戸第2回生
女子
県夢野台第2回生
2年 3年 現在のY2
男子
市神戸第3回生
1年 2年 3年 市神戸第3回生
女子
県夢野台第3回生
県第二神戸女子高の1年 2年 3年 現在のY3
男子
市神戸第4回生
暫定的に市神戸高の1年
→県夢野台の1年
↓と同じ ↓と同じ 現在のY4
女子
県夢野台第4回生
県夢野台高の1年 2年 3年
県夢野台第5回生 1年 2年 3年 現在のY5

エピソード 編集

  • 当校発祥の地は現在の兵庫県庁1号館の場所である。
  • 1950年に行われた第1回ファイアストーム(神戸で行われてきた伝統行事)が乱痴気騒ぎとなり、消防車が駆けつける状態となる。仕舞いには「炭坑節を唄う蛮行」とののしられ、これがきっかけとなり、生徒全員で歌える逍遥歌が作られた。[要出典]
    • ファイアストームはファイアラリーの名前を変え、学校行事の締めくくりとして実施されてきたが、校庭で火を燃やして盛り上がることへの近隣住民の苦情もあり、1981年を最後に実施されなくなった。[要出典]
  • 体育祭、文化祭、ファイアラリーが2学期に集中して開催されたため、これらを総して「三大祭」と呼んでいた。しかし、ファイアラリーが廃止されてからは三大祭という言葉は忘れられるようになった。[要出典]

高校関係者と組織 編集

高校関係者一覧 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 正確には、生徒への配慮からお互いの校歌を使用しなかった。

出典 編集

  1. ^ [1]教育目標・校訓
  2. ^ 4月8日という説もある
  3. ^ 正確には現体育館辺り
  4. ^ 当時の住所は林田區房王子町二丁目三番地
  5. ^ [2]夢野台高校新制服紹介.pdf/2023年7月23日閲覧
  6. ^ [3]夢野台高校校舎南館(本館棟)等の長寿命化改修(一部実施)工事のお知らせ、2023年7月23日閲覧
  7. ^ [4]夢野台高校パンフレット2023過去4年間の進路実績、2023年8月10日閲覧
  8. ^ [5] 大学合格者ランキング2023 関関同立現役「実合格者」編現役延べ合格者数欄から抜粋、朝日新聞E duA著、2023年8月10日閲覧
  9. ^ [6] 大学合格者ランキング2023 産近甲龍現役「実合格者」編現役延べ合格者数欄から抜粋、朝日新聞E duA著、2023年8月10日閲覧

関連項目 編集

外部リンク 編集