内藤 信朋(ないとう のぶとも、寛文12年(1672年) - 延享4年2月24日1747年4月3日))は、江戸時代中期の村上藩内藤家の分家当主・内藤信有の子。旗本(5000石)。知行地は駿河国富士郡および駿東郡通称は源三郎、釆女。官位は従五位下・越前守。妻は内藤信良の娘。子に信旨信邦中条信秀妻。養子に信庸、信旨の娘(信庸の妻)。

延宝9年(1681年)2月12日徳川綱吉御目見する。正徳元年(1711年)12月19日、父・信有の家督を継ぎ、小普請となる。享保4年(1719年)6月25日小普請組支配となり、同年12月18日布衣の着用を許される。同9年(1724年)12月15日書院番頭に転じ、18日従五位下・越前守に叙任された。

享保13年(1728年)8月12日に大番頭となり、また15年(1730年)2月15日からは留守居役を務めた。延享2年の徳川重好誕生の際には、蟇目の役を務めたという。

延享4年(1747年)2月24日、江戸において死す。享年76。法名:浄繁。葬地は三田浄閑寺とされている(「寛政譜」新訂13巻204頁)。

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