内藤政韶
内藤 政韶(ないとう まさつぐ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。日向国延岡藩の第4代藩主。官位は従五位下・能登守。延岡藩内藤家宗家9代。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 安永5年2月3日(1776年3月22日) |
死没 | 享和2年7月30日(1802年8月27日) |
改名 | 五郎松・金一郎(幼名)、政韶 |
戒名 | 孝猷院気山居士 |
墓所 | 宮崎県延岡市の三福寺 |
官位 | 従五位下能登守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 日向延岡藩主 |
氏族 | 内藤氏 |
父母 |
父:内藤政陽、母:岡部長著の娘 養父:内藤政脩 |
兄弟 | 政韶、政峻、内藤政脩正室 |
子 |
政順、愛、政恵、松平直寛継室、善姫 養子:政和 |
経歴
編集安永5年(1776年)2月3日、第2代藩主・内藤政陽の長男として江戸麻布にて誕生。天明8年(1788年)に第3代藩主・内藤政脩の養子となり、寛政2年(1790年)8月20日の政脩の隠居により家督を継いだ。
先代から続く藩財政難のため、寛政6年(1794年)から杉・櫨(ハゼノキ)などの植林を行なう植物方を設置するが、財政難は解消されずに逆にこの出費でさらに財政が悪化したため、政韶死後の文化3年(1806年)に廃止されている。そのほかにも水路開発、寛政9年(1797年)より3ヵ年に及ぶ家禄削減による倹約政策などを行なったが、あまり成果はなかった。
政韶は古墳発掘・調査などを自ら行なうことを趣味としており、著作に「集古採覧」がある。
系譜
編集父母
正室
- 鉚姫 ー 松平武寛の娘
子女
養子