内藤義孝

江戸時代前期の大名、磐城平藩第4代藩主

内藤 義孝(ないとう よしたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名俳人陸奥国磐城平藩の第4代藩主官位従五位下能登守延岡藩内藤家宗家4代。

 
内藤義孝
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文9年4月24日1669年5月23日
死没 正徳2年12月10日1713年1月6日
別名 露江(俳号)
官位 従五位下能登守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣
陸奥磐城平藩
氏族 内藤氏
父母 内藤義概三条実秀の娘
兄弟 義邦義英義孝岡部長泰正室、小出英安正室
正室土屋政直の娘
義覚義稠松平信岑正室ら
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略歴 編集

第3代藩主・内藤義概の3男として誕生。母は三条実秀の娘。長兄・義邦は早世し、次兄・義英松賀族之助木下重堅の孫)による讒言や病弱を理由に廃嫡されたことに加え、父が義孝を藩主に据えたいという希望もあったことから世子に選ばれた。

貞享2年(1685年)に父が死去したため、家督を継いだ。

父や次兄と同じく、俳諧に興味を示して「露江」と呼ばれる俳号を持つ優れた俳人として知られた。しかしその一方で、父のように俳句に耽溺せず、松賀一派の専横を抑えることにも努めた。藩政においては湯本神社の建設(元禄8年(1695年))など、藩政の安定化に努めたことから、初代藩主内藤政長に次ぐ名君とまで称された。ただし『土芥寇讎記』に拠れば、義孝当人は「文も学ばず武も学ばず、武芸にも励まず、朝夕猿楽にのめり込んで浪費している」と書かれており、その影響か「家人ども、猿楽を好みて、謡・仕舞・囃子等にのみ心をとられ、武芸に励む人一人もなし」という藩状態であったとされており、「主将の器とするには足りず」と断されている。同書で父親の義概については「(義孝の)父は酒宴を好み、女色に耽る」とされている。

正徳2年(1712年)に病死した。享年44。跡を次男・義稠が継いだ。

義孝が所要した具足と言われる「紺糸素懸縅二枚胴具足」が、宮崎県延岡市の文化財として現在も保存されている。

系譜 編集

父母

正室

子女